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そろそろカードゲームを『卒業』しなさい。

 私は何かに夢中になることが好きだ。

 好きだ──というか、もはやこれは感情の話ではなく、感覚の話なんじゃないかとすら思う。ニュアンスを言葉で伝えることが難しいのだが、つまり理性ではなく本能のところでそうであるのではないかという話だ。

 兎角、私はなにかに夢中になることを愛している。

 なにかに夢中になるということは『逃避』である、それとともに『直面』でもある。──と、私などは考えている。

 つまりなににしろ逃げ、避けることは直面を──つまり『会敵』を招く行為なのであると思うわけである。

 とりわけ、趣味などというものはすべからくそうであるようにも思う。

 人間、生きていれば大なり小なりやりたくもないのに、否応なしに、やらねばならないといった事柄を抱えているもので、そして質の悪いことにそういった物事に限って終わりなどはなく、常々に私たちをついて回るのだ。管を巻いているのだ。

 そういった中で、そんな息のし難い現実に瀕して、しかし私たちは趣味に憩いを求めるのだ。

 そして得てして、それは『逃避』の意味を孕むだ。

 だからそれは『会敵』を生むのだ。

 時をさかのぼること十年あまり、私は花の高校生であった。私の高校生活はカードゲームと共にあった──というのは、少々はばかられる話で、実のところは『友達とツールとしてカードゲームを扱う』程度のものであったようにも思う。

 だが、そんな私であっても確かににそこには『夢中』があった。熱中と言い換えても差し支えがなかった。

 カードゲームは遊びだった。ツールだった。私にとってはさほどのプライドも、もちろん命だって掛かっていなかったそんな他愛のないものであったが、けれど私はしっかりとそれに『逃避』した。

 時間を見つけて、ふと気が向くとカードを引っ張り出し、親のパソコンを借りてフラッシュアニメなんぞを鑑賞しながら、炭酸飲料で喉を潤し、カードを並べてみたり、スリーブを入れ替えてみたり、そんな風に日常の中の『なにがしか』から『逃避』していた。

 その時間はまさしく最高のものであって、十年あまりの時を経た今でもくだらない鑑賞を、コーラの味を、スリーブのざらつきを確かに思い出にしていたほどだった。

 さて、話は戻る。

 カードゲームは私に『逃避』を与えたが、しかし当然私に『会敵』も与えた。

 それはある日、この世で唯一私のことを無条件に愛し、慈しんでくれるはずの父親の口から聞かされた言葉であった。

 「そろそろカードゲームを『卒業』しなさい。」

 私はその言葉を聞いて、なるほど──と、一度、ひとまずに納得をした。

 そして言われた言葉を咀嚼するうちに、その言葉が意味すること。その言葉が内包した父親の心使いと心配を察するに至った。

 そして私はもう一度──なるほど。と今度は一度目よりもより深い理解と思慮のもとでその言葉に納得をした。

 手元を見れば、先ほどまでと同様に光り輝いて見えるカードがあったが、しかしその輝きは少し質を変えてしまっていたように思えた。でも、けれども、それがいったいどういった変化であるのか、おなじ眩しさにあって、いったいどこに差異があるのか、それの理解には終ぞ至れないままに──なるほど。と今度はただ無感情に納得したふりをした。

 今ならば理解できる。

 それはきっと羞恥だ。

 それはきっとうしろめたさだ。

 それはきっと嫌悪で、それはきっと憎愛だった。

 それこそが『会敵』であったのだと、私は今にして思うのだ。

 しかし当時の私はそれに「そういうのならばそうなのだろう」程度の納得感でもって納得をして、カードゲームを卒業することにした。

 そうして私はカードゲームを卒業した。


 ──そして、ここからが今回のnoteで私のしたかった話、本題である。

 それから十年あまりを経て、私は今カードゲームを再開した。

 十年ぶりのカードゲームと、カードゲーマー達は私をあたたかく迎えてくれた。

 『卒業』という言葉を『夢中』に対して使う者は、一定数いるように思う。私などもよくよく使っていた表現であった。

「もう〇〇は卒業したんだよね」

「俺も〇〇を卒業する時期かな」

「〇〇はそろそろ卒業しとけよ」

 なるほどよく聞くフレーズである。往々にして聞き馴染みがある言葉だ。

 そんな言葉を扱う者たちに、ひいてはあの日の私に、私はこの言葉を送りたい。

 なにが卒業だ。お前が何をどう修めたというのか。ともすればそれは『中退』ではないのか。この半端者どもめ。

 なににつけても、そうであったのだなと思う。

 勘違いしないでいただきたいのは、あの日私の行く末を心配してカードゲームの『中退』を促した父親には一切の悪感情はないのだ。

 私はカードゲームが与えてくれていたであろうあの日の続きを見ることも、体験することもできなかった。その機会は永遠に失ってしまったのだろうとも思う。しかし私は代わりに『その先』以外の『今まで』を得ている。それにも納得と誇りがもてていた。だから別に取り返しのつかない損失をしたとか、そういう話ではないのだと思う。

 ──いや、そも。

 人生とはきっと、なにもかもが取り返しがつかないのだ。

 だからその事柄そのものに必要以上の後悔だとか、悔恨だとか、そういった悪感情は抱くべきではないのだろうと、そんなふうに考えている。

 なので、私が言いたいことはひとつだ。

 なににつけても、どうあれなにかを独断的に決めつけるようなことは正しくあるはずがなく、ともすれば軽々しく物事の『卒業』を定義するようなことが在っていいはずがないということである。

 なんだか言葉尻を捕まえた揚げ足取りのようだが──というよりは、なんというか、十年越しのカードゲームが私に再確認させてくれたあたかも含蓄がありそうな当たり前のこと──である。

 だからまぁ、これは別に大仰に声を大にしてはやし立てるようなことではなかったのかもしれない。ただツイッターでちょっと感じ入る話題を目にしてしまったもので、この歳になるとばーっと文字に書き起こしてそんなことを言いたくなってしまうこともあろうよ、というものだ。おおめに見ていただきたい。

 ──以上である。書きなぐったさながらフリースタイルnoteをここまで読んでくれた皆様にびごっぷ!さんきゅー!








 あ、言いたいことはひとつだって言ってしまったけれども、もうひとつあったので、せっかくだし、ふたつめも書かせていただく。

 カードゲーム、マジで最高だよな。

 おわり!

 

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