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歯車たちのマザー・グース(1)──予兆・レトロスペクティヴ・『MGS2』について


writer:城輪アズサ

はじめに:トゥルースの位相

 2016年12月19日、アメリカ合衆国。その日、対立候補を破り、一人の男が第45代アメリカ大統領に当選した。ドナルド・トランプ。不動産王として知られた実業家であり、傲岸不遜で、こう言ってよければアナクロな発言によってしばしば物議を醸してきた彼の当選は後に「トランプ現象」と呼ばれ、時を同じくして出現した「ポスト・トゥルース」という言説の、主要なトピックとして分析の対象となった。

 多くの識者が指摘するように、件の選挙戦の趨勢にはSNSが重要な役割を果たした。新時代のメディア、あるいは情報インフラ。精査を経ぬままにあらゆる情報を流通させ肥大させるシステムとしてそれはあり、そのようなメディアの特性を利用するかたちで選挙戦を戦ったのがトランプであった。

 「MAKE AMERICA GREAT AGAIN!」。強権的な父として、「ありうべきアメリカ」の擬人化された姿として、自己と自己から発した言葉を演出し流通させること。その手法は情報インフラとしてのメディアのハックであると同時に、「真実」一般のハックでもあった。

 真実。それは論理的・理性的な認識の帰結を意味しない。それは物語に宿る情感の、タグのようなものである。そして複数の「真実」が乱立する世界とは、物語に覆われた世界でもある。評論家のジョナサン・ゴットシャルが指摘するそうした世界の姿は──われわれ人類を知性と理性に溢れた「賢いひとホモ・サピエンス」ではなく、共感と虚構化の中に生きる「物語るひとホモ・フィクトゥス」とみなしたうえで再定義される人類史に貫かれたものとしての世界の姿は──ポスト・トゥルース状況が現出したと言われて久しい、いま・ここの時代において一定のアクチュアリティを有しているように思う。

 われわれは物語を生きる。真実の分裂の中を、分断された世界を生きる。そしてそうした認識に一定の質量を与えているものこそ、件の選挙戦において重要な役割を果たしたSNSだった。

 ところで、そうした状況下において、にわかに注目されたテレビゲームがある。それは20世紀末から21世紀初頭において開発され、2001年にKONAMIから発売されたステルスゲーム──『メタルギア・ソリッド2:サンズ・オブ・リバティ』(以下、『MGS2』)である。

 『MGS2』は「テレビゲーム・ウォー」と呼ばれた湾岸戦争──リアルタイム報道の映像により、「戦線」の後方において、現実と虚構があいまいに溶け合った戦争(認識)のかたちを作り出した──以後に、情報化の進展に伴って現出すると予測された世界の姿を描き出した作品である。そこにおいて描かれるのは「情報」のフレームによって分かちがたく規定された世界の姿であると同時に、キャラクターが作中で口にするように「真実で飽和」した世界の姿でもあった。

 『MGS2』はほとんど「直裁的」に(トランプ現象から15年ほど前の作品であるにもかかわらず)、いま・ここのアクチュアリティを、ポスト・トゥルース的状況を、描き出した作品だった。しかしそれゆえに、発売当初の評価は芳しくなかったという。そのことは、伊藤計劃による『制御された現実とは何か』がある種の論駁記事として、ある種の「非難非難」記事として書かれたことに象徴されている。

 先述してきたように、『MGS2』は「早すぎた名作」だった。そこに表れた思弁の多くは情報化の進展がある種の臨界点を迎えたかに見えるいま・ここにおいて、初めてその効力を発揮するものであるように思える。

 しかし、本論考シリーズが行うのは、そうした社会反映的な視点から『MGS2』を寿ことほぐ批評ではない。

 繰り返せば、『MGS2』には理念的な正確さがあった。しかしそれは、必ずしも、現実的な──物質的な正確さを意味しはしないはずだ。

 センス・オブ・ワンダー。あるいはエクストラポレーションといった言葉で指し示される、サイエンス(スペキュレーティヴ)・フィクションの思弁は、現実を取り込み、寓意的に再配置し表現する。その虚構化のプロセスはしばしば現実を先鋭化されたかたちで立ち現れさせる。しかし先鋭化の過程において、フィクションは現実のある面・ある点を確信犯的に削ぎ落としてしまうのではないか。

 そこで削ぎ落とされたもの。それはある種の生臭さ、ある種の身も蓋もなさだ。

 トランプ現象はそのような性質の横溢するものとして理解するべき対象だったはずだ。そこで消費され、時に削除され、時に希釈されずログとして残ってしまった諸々の言葉たち。それらすべては、ポスト・トゥルースやエコーチェンバーといった、科学の言葉に還元するにはあまりに俗然としすぎているように思う。だからこそ、ここではそれを捉えるために批評の言葉を用いる。しかし、それだけでは足りない。

 理念的な現実の理解を常に越え出るものとしての生臭さ。それを捉えるための補助線が必要だ。そして「理念」に対応するのがゲームソフトである以上、その「生臭さ」に対応するのもまた、ゲームソフトとするのが的確であるように思う。

 さしあたりここでは、その対象として『メタルギア・ライジング:リベンジェンス』(以下、『MGR』)を用いようと思う。

 ゼロ年代における『MGS2』がそうであったように、2010年代(テン年代)において発表された『MGR』もまた、ある意味において「早すぎた名作」としての側面をもつ。そこで語られていた内容はいま・ここにおいて──トランプ現象(2016年)を俯瞰でき、かつその脅威の復権が目前に迫っていることを認めざるをえない時空間としてのいま・ここにおいて──初めてその効力を発揮するものであるように思うからだ。

 本論考シリーズではその二つのゲームソフトを批評の言葉によって捉え直し、いま・ここに再配置する。そしてこの論考では、先に示したうちの前半──『MGS2』を、主に取り扱っていく。

 ゲームセンターCXの定義に従うならば、2001年発表の『MGS2』はすでにレトロゲーム──回顧レトロスペクティヴの対象──だ。しかし本作は先に示した通り、未来の予兆を含むゲームソフトでもある。分析は、そうした二重性を通じて行われることになるだろう。回顧でありながら、それが胚胎する未来についての探求でもあるという様式。過去と未来の混淆。「時の蝶番が外れ」たようなまなざし、予測され制御された時空間を貫くパースペクティヴ──。

 そのようなものとして、本論考はある。

Chapter1:「ソリッド」の時代(SCENE)のパーセプション

 『MGS2』は2002年にプレイステーション2用のゲームソフトとして、KONAMIから発売された作品である。開発は当時KONAMI内部の開発チームだった「小島プロダクション」が行っており、「20世紀最高のゲームシナリオ」と称されるほど高い評価を、北米を中心に受けた前作『メタルギア・ソリッド』の続編に位置づけられる。核搭載型二足歩行戦車「メタルギア」の新型が積載されているという輸送船を舞台とする「タンカー編」と、テロリストによって、現職大統領ほか多数の人質をとった状態で占拠された洋上の除染プラントを舞台とする「プラント編」の二部からなり、それぞれに異なる主人公が配置されている。前者には『メタルギア・ソリッド』から引き続きソリッド・スネークが、後者には新キャラクターの雷電が配されているが、分量で言えば後者の方が多く、ここにおいて実質的な主人公は雷電と言うことができる。

 本作は特に、前作、ないし次作との関連が強い作品である。物語のレベルにおいてだけではなく、ゲームシステムのレベルにおいても、そうした視点を抜きにしては語れないほどに。

 というのも、この作品はある種の「過渡期」にあたるものだからだ。

 小島秀夫監督による『メタルギア・ソリッド』シリーズは基本的に「ステルスゲーム」として開発されている。超人的な技能を有した潜入者(の役割を負わされた主体)が敵地深くへ潜入する過程。それこそが『メタルギア』の作り出す時間であり、そのシリーズを『メタルギア』たらしめる要素だった。

 そして『メタルギア』のシステムは、潜伏へとプレイヤーを駆り立てる。

 小島秀夫による『メタルギア』のシステムにおいて、基本的にライフゲージは自動回復するようになっている。そしてそれゆえ、運悪く敵に発見され、発砲され、負傷した場合、プレイヤーに取りうる最善の選択肢は「隠れる」ことだった。敵を倒す、という選択肢も勿論ある。しかしライフ(体力)を回復させる手段が待機である以上、撃退よりも潜伏の方が優先されるのは自明である。警戒度、と呼ばれる、進行の局地的な困難さの度合いを示したパラメータが同様の原理で増減することもまた、その自明性を強化していた。

 ステルスゲームたる『メタルギア』の自由度は、基本的に操作・進行に関わっている。いかにして隠れるか、いかにして敵の注意を逸らすか、あるいはいかにして「遊ぶ」か。戯画化された敵の認識ルーチンはしばしばおかしみを生む。その間隙を突けば、現実ではありえないような奇妙なプレイを、奇妙な状況を現出させることができる。それはゲームの世界観の持つある種のリアリズムを束の間転倒させ、ゲームのゲーム性を際立たせ強く意識させる。その「遊び」においてゲームの進行はしばしば確信犯的に遅滞される。そしてゲームは、その遅滞を反転させることも許容する。プレイヤーが自身の内から「遊び」を消したとき、ゲームの進行は加速され、スムーズになる。シリーズが進むにつれて、『メタルギア』は進行を阻害する障壁を取り払っていった。それによって最高効率での潜伏による最高効率での進行が可能になり、「映画的」とも評されるゲームシナリオとプレイヤー、そしてその仲立ちとしてのキャラクターが限りなく一体へと近づいていく。『メタルギア』の基幹には、こうした自由と一体感がある。

 しかし『メタルギア』がもたらすゲーム体験は、それぞれの作品によってまったく異なる。というより、常に変化し続けている。

 そしてその変化には方向性がある。それは「発展」のかたちを取った変化だ。ゲームを成り立たせる技術の発展と、ゲームを成り立たせる設計思想の発展。その二つが、絶えずシリーズを規定している。

 その変化は『メタルギア・ソリッド』と『メタルギア・ソリッド3:スネークイーター』(以下、それぞれ『MGS1』『MGS3』)を比較するとわかりやすい。基本的に旧来の、鳥瞰的な画面構成──平面の画面構成──を持っていた前者に対し、後者は主観的な、立体の画面構成と世界設計でもって、ステルスゲーム的な時間を作り出す。そしてその構成を補強するガジェットの相違は、決定的にこの二つのゲームがもたらす体験を分断した。

 ソリトンレーダー。そう呼ばれるガジェットが、『MGS1』には登場する。

 それは絶えずプレイヤー・キャラクターにとっての「障害物」であるところの敵兵の可視範囲と位置を示すものだった。画面右上に表示されたソリトンレーダーの表示は、そのまま画面構成に対応しており、キャラクターの属する時空間のレイヤー──敵要塞の風景──を補完する。しかしプレイの過程において、この表示は補完以上の意味を持つのだ。

 ソリトンレーダーの表示はいわばもう一つの現実だ。それは最もソリッドなかたちで、ゲームシステムがプレイヤーに求める操作を提示する。いかにして敵の「目」(認識アルゴリズム)をかいくぐり、いかにして潜入するか。その要求が、ソリトンレーダーの小画面には表れている。だからプレイヤーは、しばしば敵要塞の、ポリゴンで構成されたグラフィックよりも、抽象化されたレーダー画面を注視する。そしてそのまま操作を行う。ここにおいて主客は転倒し、平面のゲームの、平面のゲームたるゆえんがむき出しになる。

 それに対して、『MGS3』にソリトンレーダーは登場しない。敵兵の可視範囲は当然のこと、その位置さえも、プレイヤーは「目視」によって把握するほかはない。ポリゴン(『MGS1』とは異なり、ポリゴン数の大幅に上がった「美麗な」ものだ)によって構成されたグラフィックの中から、時に、大幅に操作性の上がった主観視点への切り替えを行いながら敵兵の人型を探り当て、その行動パターンを分析し、潜入する。それは月並みな言い方をするならば「リアリティーのある」潜入過程だ。そこにあるゲーム体験は、ゲームのゲームたるゆえん、ゲーム性を忘却させることで成り立っている。

 ひるがえって『MGS2』は、この二者のゲームの中間点に位置づけられる。

 それは『MGS1』のような、平面的な画面構成を持ってはいたものの、主観視点の操作性が大幅に向上しており、その点において『MGS3』に近い。付け加えれば、ポリゴン数が低く、ごつごつとした印象を受ける「ローポリ」の『MGS1』に対し、こちらはポリゴン数ほか、リアルタイムポリゴンデモ(ムービーシーン)のフレームレートも上がっている。

 『MGS2』の中間性。それはシリーズにおける中間性であると同時に、ゲームと現実という二項対立を立てた場合における中間性でもある。

 ソリトンレーダーに代表されるような、抽象化され再現された現実の姿を介して、目視できる範囲の世界──一定のリアリティーをもつ──に向き合うこと。『MGS2』がプレイヤーに要請するそうした態度は、本作の胚胎する、ゲームというありかたそのものへの批評性を浮かび上がらせる。

 『MGS2』は、一つの物語を持つゲームというものの直線リニア性を終盤において告発した『MGS1』すらも取り込み、さらに高いレベルでゲームという様式を批評してみせた。それは「20世紀最高のゲームシナリオ」の精緻さが避けがたくまとってしまう危険性に対する自己批判であり、その危険性が際限なく高まっていくであろう未来に対する(悲観的な)予兆の活写でもある。

Chapter2:『メタルギア・ソリッド』の神話と構造──ゼロ年代のフレーム

 伊藤計劃が『神亡き時代の神』の中で指摘したように、メタルギア・シリーズとは常に「大きなもの」──われわれを規定する「神」なるものの輪郭を描き出すことでそのシナリオを成立させてきた。神。あるいは歴史。あるいは「物語」。それは冷戦の時代においては「核」だった。圧倒的で絶対的な終末のイメージをまとうものとしての核。ジェームズ・キャメロンがその映画において描き出してきたような「核/終末」のイメージによって規定されていた時代の原風景。それは初期メタルギア──三部作の構造をとっていた『MG』『MG2:ソリッド・スネーク』、そして『MGS1』──において現れていたものだった。

 しかし冷戦は終結し、「大きな物語」は、「歴史」は、終わりを告げた。少なくとも、そうした大文字の問題についての切実な意識が有効であった時代は、過ぎ去ったものとして認識された。そしてその後に発表された『メタルギア・ソリッド2:サンズ・オブ・リバティ』(以下、『MGS2』)において小島秀夫が描き出したのは、「核」をある種の虚構として配置し(『MGS2』における破壊兵器「純粋水爆」は存在しないカバーストーリーだった)、現実それ自体を予測され制御されうるものと見做す「情報」のフレームが支配的になった世界の姿だった、と伊藤計劃は指摘する。

 その『MGS2』におけるもう一人の主人公こそが、『MGR』において単一の主人公を担う雷電だった。「情報」の海(=予測され制御された時空間)を漂う一人の青年として、かつて雷電は描き出された。

 先に触れたような、ゲーム自体の自由度に反して──あるいは、自由度を突き詰めたからこそ見えてしまう限界性に際して──『MGS2』が行ったのは、ゲームのリニア性に対する告発だった。それは『MGS1』においてもみられた意識だったが、ここにおいてそれはさらなる先鋭化を被っている。

 無線が示す状況によって目の前の現実を秩序づけ、無線の与える指示に沿い、時にソリトンレーダーの示すデジタル情報に視線を移しながら、目の前の現実に介入していくこと。その過程。それを扱う手順プロトコル。ここで形成された意識・現実を理解するための物語はどこまでも人工的であり、その点において、それはすべてが予測され制御されうるシミュレーションに等しい。そして終局にあって、状況を統御する主体である「愛国者たち(=「われわれ」を名乗る一人称複数者)」はそれを雷電に、そして他ならぬプレイヤーに告げる。

 いま・ここの現実がシミュレーションに転じうるということ。あるいは、すでにシミュレーションに転じてしまっているということ。すべてが仮想現実と化した世界の予兆。それこそが『MGS2』の描き出したものであり、それを可能にする思弁的な実在として、「不気味な」システムとして、小島秀夫は「愛国者達」を構想した。情報というフレームを規定する「愛国者達」は、アメリカという〈帝国〉の肥大に伴って析出した一種の怨霊のようなものだ。それに実体はない。だからそれは、欧米流の陰謀論が規定するところの「影の勢力」とは存在を異にする。その本質はどこにも根拠がない(あるいは、あらゆるものが根拠になりうる)、という意味での自己目的的で普遍的な存在様式にあるからだ。それは情報化された世界の、回路そのものである。絶えずわれわれを規定する原理。進化論における「淘汰」──「継承されるべき遺伝子」を自動的に剪定する自然界のシステムという発想──の、文化的なレベルでの実装。文化的遺伝子(MEME)の淘汰(の原理)。それを物語的に表現する手段として「愛国者達」は存在していた。

 無論、進化論における「淘汰」の機能については、今日、ダーウィンやその継承者たちが規定したほど厳格なものではないことが明らかになっており、いま・ここにおいてそれを無謬のものとして確信することは難しい。しかし『MGS2』において現れた思弁・「情報」のフレームは、それ自体、今日においてもいまだ有効であるように思う。それは情報化社会の進展に伴って現れるものを見事に言い当てていた。「マルチメディア中世」(岡田斗司夫『僕たちの洗脳社会』)や「一般意思2.0」(東浩紀『一般意思2.0』)といった諸々のタームが取り落としてしまったものとしての、悲観的な現実の実相が、ここには表れている。

Chapter3:テン年代と「個」のアクチュアリティ──『MGR』の位相

 しかし前節で見てきたようなイメージを、『MGR』は継承しなかった。

 「文化的遺伝子(MEME)」という言葉を一切用いなかった『MGS2』とは異なり、『MGR』は折に触れてその単語を連呼するし、テン年代的なSNSは直截的なかたちで描き出され(「SNSを見ろ!」*1)、そこにおいて現出するとされる「世論」は物語において重要な役割を果たす。にも拘わらず、『MGR』は予測され制御されうるものとしての現実というモチーフを──『MGS2』が描き出したような情報のフレームを──描出することを拒んだ。「愛国者たち」というモチーフは、現実一般に対する問いかけを削ぎ落され、単なる検閲装置として表象されることになった。

 しかしそれは、現実の無視を意味しない。そこにあるのは別様の現実に対する別様の仕方でのアプローチであり、その意味において特有の価値を持つように思うのだ。

 ここで言いたいのは『MGR』は、ある種のアクチュアリティを有していると言えるのではないか、ということである。

 『MGR』はしばしば、その幻想性によって──現実からの懸隔によって──受容され評価されてきた。「エンタメとして優れている」という、フィクションの批評(感想)においてしばしば持ち出されてきたフレーズが、『MGR』の評価においては圧倒的であったように思う。

 しかしポスト・トゥルース的状況と呼ばれるいま・ここの世界にあって、それが指し示していたものはアクチュアリティを持ちうるのではないか。少なくとも、『MGR』は広く言われてきたような、無謬の幻想性によってのみしるしづけられる作品ではないはずだ。

 『MGS2』が情報のフレームそのものを理念的に扱っていたのだとすれば、『MGR』が扱っていたのはその結節点ノード──生臭くいかがわしい「個」の重苦しさだ。そしてこと「個」に関して、『MGR』が持っていたのはやはり「身も蓋もない」かたちのアクチュアリティだったのではないか。

 『MGR』が描出せしめたのは、情報化の進展に伴うポスト・トゥルース的状況そのものではなかった。かと言って、トランプ「現象」と言うような個々の事件・トピックでもない。それは「トランプ」という個人。トランプという主体。トランプという志向性である。『MGR』にあるのは状況・現象を担う個人の姿、個人のアクチュアリティだ。

 そうである以上、そのシナリオが胚胎するテーマ性もまた、「個」の側に──身も蓋もないかたちで──肉薄していくことになる。そしてそこにおいて初めて、『MGR』は「未来」を──今日明日、というような意味での未来ではなく、いつか・どこか、という意味でわずかに遠い未来を──描き出すことになる。

 『MGR』が発売されたのは2014年、トランプの当選の2年前であり、開発期間を考えればもっと前にはその大枠は出来上がっていたはずだが、イメージ戦略を駆使した苛烈な舌戦によってしるしづけられた、2012年のアメリカ大統領選を横目に睨みながら制作された作品であることは間違いない(*2)。だからトランプ的なもの(≒右傾)、ポスト・トゥルース的なものの予兆は、ゲームの開発時期にはそれなりに高まっていたはずであり、その点において、ゲームに表れたアクチュアリティ、近未来性は、「近未来」という言葉がただちに指し示すような遠いものではなく、どちらかと言えば「明日」という言葉が示すような、ベタで身近なものであったと予測できる。しかし『MGR』の可能性は、その身近さのみにあるのではない。

 『MGR』が描き出したもの。「明日」的な未来ではない、本当の意味での「近未来」に対する思弁。それはマチズモ(マッチョイズム)の未来であった。『MGR』がその終局にあって描き出したのは、未来におけるマチズモの姿だ。

 さしあたり次回では、そうしたマチズモのかたちを「鋭利なマチズモ」と名付け定義する。そして『MGR』を多角的に検討することで、その輪郭を浮かび上がらせていく。

 それはまた、別様の仕方で、トランプ現象やポスト・トゥルースといったいま・ここの問題系に、フィクションの力をもって接近していくことでもある。

次回:「歯車たちのマザー・グース(2)──鋭利なマチズモ・『メタルギア・ライジング』について」

注釈一覧

*1:『MGR』、アームストロング上院議員のセリフ。
*2:https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2013-03_003.pdf?noprint

参考文献

伊藤計劃「制御された現実とは何か」(ハヤカワ文庫JA『伊藤計劃記録1』所収、2015)
伊藤計劃「神亡き時代の神」(ハヤカワ文庫JA『伊藤計劃記録2』所収、2015)
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011)
ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(原題:《THE STORY PARADOX》 東洋経済新報社、2022)

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