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「語学力」「楽器の技術」と 似ているね 〜全ては親の見栄のため?All for OYA'S MIE(ローマ字表記)!

 学生時代の思い出について引き続き書きたい。ちなみに、このnoteを書くことで、今後一切の同窓会的なものには、出席しにくくなることを覚悟している。孤独な老後を支えてくれるかもしれない、重要な人間関係からの「卒業(©️尾崎豊)」である。さらに、先月から有料版のnoteにしたので、この文章を書く活動は、残念な職場で上司に太鼓を叩いたりして自尊心を磨耗させて得た収入からの「持ち出し」である。ゆえに、少しでも何か心に残る、と思っていただいた方には、潤沢なサポートをお願いしたい。自分の人間関係を犠牲にしての(この世のどこからのニーズもない)執筆活動に対して、一口100円からのサポートを、できる限り存分に、「いつも何度でも」お願いしたい所存である。

 「語学習得に日本で最も力を入れていた」自分が通った大学は、学費が高額な、お育ちの良い人々が多く集う、international(国際的w)なprivate(私立)の学校であったせいか、時折びっくりするようなRich People(©️「月曜から夜更かし」で出てきた良い感じにとても嫌な感じの女性)がいた。私がとても驚いたことには、医者の子女、大学教授(定年まで勤められるであろう正規の教授)の子女、大手の有名★広告代理店勤務★の親御さんの子女、などが身の回りに多くいたことであった。

 私は学食の420円のチキンカレーが高過ぎて激昂していたので、彼ら、彼女らの文化資本の厚み、重みにいつも驚かされていた。また、本当に豊かな方々というのは、そのことを自慢するような野暮なことは全くしないのであるが、豊かさというのはその佇まいや雰囲気から、漂っていたし、人柄もすこぶる良く英語力も高く、かつそのことをひけらかすことなどまったくないような方々が多かった。文化資本、という言葉の定義も適当だが、私が最も驚いたこととして、ピアノ、バイオリン、などの楽器の習い事を幼少期からしていた人が多く、さらに当たり前のこととしてかなり高度な曲なども弾ける技術を持っておられる上に、そういったことを特に鼻にかけないのだ。どこからどこをどう切っても、非の打ちどころのないような方が多く、そのような方々の存在に、自分はひたすらに打ちのめされた。

 語学力と楽器の習い事などの経験、そして学歴、というのは何か共通した要素があると思う。はっきり言えば親の経済力に裏打ちされた親の見栄(OYA'S MIE→造語)の産物、親の自己満足、ポジティブな表現で言えば、潤沢な文化資本により、お勉強だけではない幅広い能力を高められる機会が多い豊かな人々が多かった、ということであった。

 音大に進学させるわけでもないのに、なぜそこまで音楽の基礎力があるのか、私は友人達の音楽の能力に驚いた。自分はピアノを一応習わされていたのだが、長年習っていたにもかかわらず、まるで上達しなかった。狭い狭い団地のスペースには、父親の見栄の塊のような蔵書に加え、ピアノもあったので、間違いなく生活空間を圧迫していた。

こんまり氏や、やましたひでこ氏に相談せずとも、何よりもまず先にピアノを断捨離するべきだったのだが、両親ともに、なぜかピアノを子供に習わせたいという妙なこだわりがあって、私は一切の興味がなかったのにピアノをやらざるを得なかった。やりたいという気持ちが自分になかったので、まるで上達しなかった。まずピアノの蓋を開けたり閉めたりして鍵盤に乗っているちょっとギザギザした布をとるだけで3年くらいかかったような上達のしなさであった(比喩である)。何のモチベーションもなかったのでその上達は「牛歩戦術」のような、のろいのろい、歩みであった。

音楽が嫌いだったわけではないのだが、ピアノが弾けるようになりたいと思ったことが全くなかったのに、突然習わされることとなり、ブリン体もゼロ、コレステロールゼロ、脂肪ゼロ、糖質ゼロ、しかしたっぷりとアメリカデハ禁止の人口甘味料が入っている昨今の飲み物のように、ピアノに対するモチベーションはとにかくゼロであった。滝川クリステルの足が不自然な形で映るニュースゼロもびっくりのゼロであった。本当はこんなことやりたいと全く思っていないのに、やりたいのかやりたくないのかも問われず始まったピアノを、やめることは長い間、許されなかった。

自分にとって、「ピアノ」の記憶は、苦い苦い、ウルトラミラクルビター(和製英語)な幼少期の記憶の中でも、とりわけ辛い思い出であった。

 

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