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女子と語学力(8) 〜「残念な」人でも凄いと 思われる それが日本の 語学の位置づけ〜

地方都市での私塾での特訓が生きた結果、日本で最も語学習得に力を入れている大学に入学し、自分の英語力は、高校生の頃に比べれば圧倒的に伸びたと思う。現在、自分の英語力は、TOEICのスコアだけでいうと、第二言語として英語を学んだ人の中では最高峰(笑)のスコアを誇っている。英語圏での滞在経験が、たった6週間という経験にしては、とても高いスコアである。そんなハイパーメディア語学力を身につけられる、最先端の教育(笑)を高い学費を払って施してくれた、狭い団地の一室で節約をしまくっていた母親には感謝していなくもなくもない。そして、そんな充実したプログラムを受けることができたことにも、感謝していなくもなくもなくもない(どっちだ)。

しかし、自分の自意識において、最も「自分は英語ができる!」と思い、自信を持っていた時代は、今よりもスコアや語彙力の点では、圧倒的に英語力がなかったはずの高校時代であった。そして、当時は純粋に「英語が好きでっす!」「英語が得意でっす!」などとハキハキと言えていた。しかしその当時の自分の英語力への自信は、夏休みの旅行中に、もろくも崩れ去った。

家族と親族一同で、まるでバブル期の日本人のように、名所だらけのルートを辿るパック旅行に行ったときの思い出である。ヨーロッパの、確かスイスのレストランで、お皿が足りなかったので「お皿をもう一枚追加してもらいたい」と英語で言おうとしたのだが、一切、話せなかったのだ。「皿」も「もう一枚」も何といえばいいのかわからない。

英語が得意デッス!と胸を張って思っていたのに、一言も何も言えない私の様子に、ウエイターの男性は首をすくめ、「Sorry」的な意志表明をするための、手のひらを上に掲げて口をへの字に曲げて「お手上げ」と言わんばかりのジェスチャーを示した。

自分の英語力は、海外の人とのコミュニケーションを図るツールとしては、堂々の「最低レベル」であった。しかし、自意識のレベルでは、今の自分よりも、ずっと、zutto、英語力があると思えていたのだった。

そのような残念な経験から問いたい。日本生まれの日本人の集団の中における「語学力」とは一体なんなのであろうか。同時通訳として働いているとか、専門的な書籍の翻訳に従事しているとか、グローバル企業に所属し、日常的に海外と取引などをしていて、会議は英語で行われ、メールを英語で送るのが当然、というような企業で働く方々(そんなにたくさんいるとは思えない)以外の日本人にとっての語学力とは、一体なんなのか。

想像してみてほしい。なんだかとっても冴えなくて、いつもやる気がなさそうで、周囲からいじられまくっているAさん。なんなんだあの人は…一体どうしてこの職場に入ってきたんだろう…?

「Aさんは(あんなにパッとしなくても)英語が話せるんだよ!」

これは凄まじいキラーワードである!想像してほしい。いつもダメな感じのAさんは、英語が話せるらしい。

ええええー!!!!
あの冴えないAさんが!英語が話せるんですか!

そう、専門的な語学の知識を使う必要がない人にとっての語学力とは・・・(ダルルルルー!)
・親、あるいは親と本人の見栄の産物
・育ちの良さを暗に示せる魔法(個人差あり)
・「残念な」人でも凄いと思ってもらえる可能性が上がる
・人とのマウントにおいてかなり有利になれる資格

であると思う…。つまり「実態」があるようでないのだ。いや、なんなら本当に実態がない!

いや、実態がないなんてことはないでしょう?採用において有利だったり、今や転職でも望ましい英語のスコアも書いてあるし、グローバル化の時代、海外から来た人と交流できるでしょう…?できるにこしたことはないのでは…?と思われることでしょう。確かに、TOEICが採用時の一定の要件として認められている場合はあり、一切役に立っていないわけではもちろんないのだが、しかし、そこまで役に立っているのかというとどうも疑問が残る。

女子と語学力(9)に続く…。

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