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人生を変えた映画 恋する惑星(2) 〜両親の 濃厚接触 目撃し〜

王家衛(ウォン・カーウァイ)監督による「恋する惑星」の衝撃は相当なものだった。

当時、行動範囲もお小遣いも限られており、そもそも歩いて行ける場所に書店などなく、映画評の掲載された雑誌などという高級なものを読む習慣がなかったので、記事を読むことは少なかったのだが、レンタルビデオ屋さんで手に取ったVHSのケースの裏側を見たとき、カンヌ映画祭のふさふさしたロゴとともに、クエンティン・タランティーノの熱い熱いコメントが載っていたのは覚えている。

自分にとって、面白い映画を薦めてくれる存在といえば、たまに映画の話をしたり映画館に一緒に行った同級生と、ランキング本を執筆していた淀川長治さんと、VHSの裏側の数文字、のみであった。自分の脳内では、タランティーノは、面白い映画を作っている友人、もはやマブダチ(死語?)のような存在であった。「あのタランティーノくんが褒めるなら、きっと面白いに違いない」というような、脳内の関係性の距離感が大幅に狂っている状態で、虹彩に映る明朝体の文字を媒介にして、ワクワク、ドキドキと、期待に胸を躍らせて借りたのだったが、「恋する惑星」は、熱い熱いタランティーノのコメントによって跳ね上がった期待値を遥かに上回る凄い作品だと思った。

「恋する惑星」…!従来持っていた香港映画のイメージとは、何から何までまるで異なる映画だった。「長慶森林」という元のタイトルとはだいぶ印象の違う邦題、「恋する惑星」…!これが「長慶の森」みたいなタイトルだったり「チャンキン★ウッズ in 香港」みたいなカタカナのタイトルだったり「トニー・レオンはイケメンポリス!?ドタバタチャンキンマンション!」みたいなタイトルだったら、間違いなく、全く違う印象になっていたと思うし、何なら生涯見ることはなかったかもしれない。

ショートカットのフェイ・ウォンのチャーミングさと、展開が全く読めないストーリー、クリストファー・ドイルによる、やけに揺れたり、やたらにスローになるカメラワーク。今なら、スマホのアプリで同じようなことがすぐにできてしまいそうだが、その頃は全てが斬新だった。

当時、すでにフェイ・ウォンは、中国全土で知らない人はいないくらいの有名な歌手で、台湾や香港でも人気があったようだし、映画に出ていた俳優たちは皆、中国、台湾、香港で有名な大物俳優だったらしい。今ならGoogle先生に教えてもらえるが、その当時は、男女問わず出演者のことを全く知らなかったので、映画の中の人物を、役柄そのままに見ることができたのだった。

トニー・レオン演じる警官の、可愛らしい犬のような、困った感じの垂れた眉毛とそのキャラクター、何者なのかわからない金髪の女性、ブリジット・リン。そして英語と中国語と日本語の3カ国語を操る、チャーミングな金城武の存在感、自由奔放なフェイ・ウォンの演技にひたすらに圧倒された。

「恋する惑星」は、タランティーノのデビュー作である、「レザボア・ドッグス」と、今や90年代映画の金字塔となっている「パルプ・フィクション」の、両方の要素が混ざったような映画だった。複数の登場人物が、重慶マンションという閉ざされた空間と、その周辺の街角で、偶然に出会ったり、離れたりする。少しずつ、ずれていく時間軸の中で、異なる視点が時々重なったり、遠のいたりする。非常に実験的な映画なのに、ストーリーを追うことは難しくなかった。単なるラブストーリでもないし、銃声は鳴り響くしインド人がドヤドヤと出てくるものの、サスペンス、というわけでもない。繰り返し流れるBGMと同じセリフ。かと言って、実験的な映画にたまにある「今のシーンに何の意味があったの?ええ!?あんた誰(©️スチャダラパー)?」と、狐につままれるようなこともない。

今はこの世界に存在しない、屋根すれすれの香港上空を飛ぶ飛行機、何気なく登場する香港らしいカフェ(茶餐廳(ちゃーつぁんてぃん、という香港ならではの喫茶店だということを、その後旅行した際に知った)、街角の風景(腸詰を売っている店など)、お店のおじさんの「THE香港」と言わんばかりの丸いメガネと白いくたくたしたシャツ、BGMの音のバランスがちょっと間違っているのでは?と驚かされるほどに大きな音で繰り返される曲(ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」という曲だったのだが、当時はgoogleもyoutubeもないので、検索することなどなく、ただただ「こんなに何度も同じ曲を使うなんて!」と驚いた)、あらゆる要素が、初めて見る種類の映画であった。川沿いの団地の部屋で、深夜に見た時は、ひたすらに、ただひたすらに圧倒されたのだった。

そして「恋する惑星」のもう一つの衝撃は、英語圏の映画ではない、ということだった。金城武が中国語(正確には台湾風の発音のマンダリン、なのだが…)と日本語と英語を切り替えて女性に声をかけるシーンは特に印象的だったが、英語と広東語が切り替わる台詞もあった。その後、短い期間ではあったが、中国(北京)、台湾に留学して、現地で中国語を勉強したのち、再度DVDを見直した際、「普通話」と言われる「ニーハオ」や「シェイシェイ」などの単語で日本で知られている中国語と、香港で話されている広東語が、会話の中で混ざるシーンがよく出てくることに気づいた。

中国はとにかく広大で、地域によって話されている言葉が、外国語くらいには異なる。地域の方言や訛りはあれど、ほぼ全員が同じ日本語を話すことに表面上はなっている、日本で育った友人たちに、その中国の言語状況を説明するのは困難を極めるので、わかってもらうことは諦めたが、共通語である普通話(=マンダリン、中国では北京語、台湾では國語といわれている)と、地域固有の言葉を両方話せる人が多く、日常的にその言語を混ぜ、切り替えて話す、ということがよくある。特に香港では、世代によってかなり違いはあるものの、普通話と広東語両方を話せる人が存在し、話す相手によって何気なく切り替えている人もいるようだった。そんな言語事情を多少理解した後で(正確にはよく知らんけど…)再度、王家衛の映画を見たときは「こんなに言葉が混ざってたのか!」と目から鱗であったが、地方都市の川沿いの団地住まいの高校生であった自分には、そんな区別はわからなかった。

今でこそ「日本のアニメやコンテンツは世界で賞賛されている!日本の製品の高いクオリティが世界を凌駕している!」という、中(厨)二病のようなメンタリティーがテレビやネットニュースを駆け巡っていて、どんよりとした気持ちになるけれど、当時は、日本が海外で注目されているなんていう考え方はほとんどなく、むしろアメリカやヨーロッパの方がずっと優れている、という考え方が優勢だったように記憶している。「アメリカやヨーロッパの方が優れていて日本は劣っている!」というような発想そのものが、欧米崇拝意識にまみれた両親の影響で、それこそ必死に映画を見るきっかけだったような気もするのだが、今にして思えば、それは祖父母が戦争を経験し、不条理な日々の中で必死に生き延びてきた世代であったからだと思う。今でこそ、そんな時代があったなんて想像ができない、と思えてしまうほど、大した根拠もなく逆切れのように日本を賛美する方向に変わってしまったが、自分が幼少期だった80年代~90年代後半は、経済的にはバブルなどを経て大国になり、日本という国がかつて経験した苦しい歴史の記憶は薄れつつあるものの、近隣の国々への贖罪意識のようなものが、まだまだ世の中を覆っていた。今にして思えば、アメリカが戦後の政策として、日本が近隣諸国よりも優れているという感情そのものを、封じ込めてきた結果だったのかもしれない、と思うが、日本のドラマや映画などポップカルチャーが優れている、などとは一切思ったことがなかったので、「恋する惑星」の金城武のセリフを通じて、日本の芸能人の存在を知っている人が日本の外にもいるのか!しかも山口百恵!三浦友和!と本当に驚いたのだった。

そして恋する惑星を見た日の夜、狭い狭い団地の一室で、両親の営みの様子をうっかり目撃するという事件も起きてしまった。

人生を変える映画を見た日の夜、こんなに狭い空間で、思春期の娘も隣にいるのに濃厚接触に至るその両親の神経には、ほとほと驚かされた。

「この世で一番見たくないものを見た」と思った。ふすまをすぐに閉めたので、そのシーンは、数秒だったと思うが、ショックのあまりクリストファー・ドイルのカメラも真っ青なほどに私の瞳の中の虹彩はバランスを崩しガクガクと揺れ動いたり、白黒になったりカラーになったりしたような気もする。

自分に息子もいる今となっては、営みの行為が、生殖のための物理的な生産行為寄りになってそれなりに長い月日が経過し、「そんなこともあるものよ、ものかな(詠嘆)」と、ひろゆき氏に何も役に立たないと論破されていた古典の知識を披露したくなるが、当時のショックは半端ではなかった。

自分の生命も狭い団地の一室における両親の営みによって育まれ、そうして数十年後にこんな文章を、非常に使いやすい(少しヨイショ)noteで書いていて、それを読んでくださる奇特な方々が存在する時代になったと思えば、さまざまに交差する狭い惑星の中で、それぞれの思いが重なった、たぐい稀なる瞬間であったと言えなくもない。

noteによれば、今夜は停電が起こるかもしれないので、保存されなくなる前に、この文章を書き終えることとする。

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