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モノ書きのかじりかけは、お茶など飲んで❺書くための文学・文芸の理解

純文学とエンタメ文学、何がどう違いますか?

という質問に、あなたならどう答えますか?
芸術性と大衆性?掲載誌や読者層の違い?分かりにくさと分かりやすさ?いっそ雰囲気じゃないのか、純文風エンタメとか、エンタメテイストの純文もありでしょ。
僕なりに考えた結果、純文学は抽象絵画で、エンタメは具象絵画だと思います。
そしてこれが理解の限界(-_-;)で、今の自分がいるところです。


抽象画って、“わかる人”同士で見ると「これは希望が描かれてる」「苦悩の中にある希望ですね」「ああ、祈りだね」という会話が、当然のようになされる。(実際聞いたことがある。それは、ただの茶色い油絵の具の濃淡で描かれた中心らしい中心もない絵だった。)
僕は説明されて「ああ、なんとなくー。隠れんぼしてる犬、と言われた方がなんぼか納得できるけど(苦笑)」というレベルです。
これが、僕の純文学のイメージです。
視覚認識はできる。でも何が書いてあるか、わからない。
本は読み手がどう感じるのも自由、とか言われますが、例えばこれが純文作品だとして、
「泥まみれの犬を書こうとして泥しか書けなかった話」と言ったら“わかる人”から失笑されるでしょう。
僕は、その画面から‘’希望‘’だと理解できる道筋を知りたい。文学上で。

それと対になるものとして、エンタメ文学が具象絵画だとすると「犬だ🐶」と一目でわかる。泥まみれでかくれんぼしている犬がバッチリ描いてあるのが、エンタメ文学のイメージです。
犬がかかれているが猫の可能性もある、だと(面白いかもしれんけど)、エンタメ小説としては分かりにくい、ということになってしまうでしょう。
書き手としては、具象画(エンタメ)なら隠れんぼしてる犬の、毛並みの再現度、構成、その他画面にあるもの全てを理解したい。その上で、この可愛い犬は希望の塊だ、と納得したい。



ひとやすみ☕️です。

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パウル・クレーの絵。
「遠くからの色」というタイトル。
何が描いてあるのかわからない。でも温かい気持ちになる。
一瞬子どもの頃に戻って、子どもの目で何かを見たら、こんなふうにみえそうな感じ。見当違いかな…?
作家は何を見て何を思って書いたんだろう…


感覚でしかとらえられないものの、一歩先へ進めたら、違う景色が見えてくるかな?
たくさん本を読むことと、小説がうまくなることはイコールではないと思います。
いろんな考えがあるけど、僕はどういう読書体験をしたか、だと思っています。
だから僕の人生読書量は少ないし、読む作家も偏っているし。
それがここに来て、裏目にでてるなぁと思います。
作家の名前を聞いても、点でしかわからない。点を線にするには広く読んで、時代背景や文化的側面がわからないとだめかな。
一人の作家や分野に絞って、掘り下げたこともないので、愛はあるけど理解はない、みたいな。

学ぶという事が、自分の書くものに還元されないならつまらない、と思ってしまう。文学をお勉強にしちゃうと眠たいんだよね。
得意なこと(あるのか?)を伸ばす、か、好きなことだけ突き詰める。
だとしたらブルーノ・シュルツなんですが、ポーランド文学?んんんんん?
一応、カフカと同世代で不条理文学の系列になるけど、まあカフカは好きでも、不条理文学を突き詰めたいとは思えないなぁ。
マゾヒズム文学ともいわれますが、多分サブカル界隈の話で、ヨーロッパの文学史のメインストリームから外れた存在なんです。それにシュルツさん画業の方はマゾマゾしいけど、小説はそちらには振り切ってませんよね?
彼の、夢の中でだけ覚醒するような作風が好き、ただそれだけなんです。


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    シュルツさんの絵。
おっさんの顔がやばすぎる(¬_¬)
どマゾの絵や…


書くための勉強といっても色々あるのに、なぜ文学史に拘泥するかというと、文芸誌とかの批評がわからないから。(そしていけすかないからです。)
批評は作品を掘り下げたり自分にはない視点をくれる。だけどたまに、その作品には全く触れず文学史(ならまだしも他の作家の解説)を語っておわり、のようなの。僕は作品理解の一助が欲しいのに、批評家センセーの知識を読まされても…。だから苦手。ほとんど読まない。でも、ある流れ・比較・類推から作品を理解するという方法もあるんだと思う。ただ、自分が文学史なり言及された作家を知らないだけで。

 近道はない。

今回は、こんなところで。さいごまで読んでくれてありがとうございます!



読んでくれてありがとうございます。