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きみの天使のミッシングリンク#THE NEW COOL NOTER賞 [B L]

 杏珠(あんじゅ)は何も覚えていない。病院から彼等が自宅兼アトリエへ戻った後したことは、部屋の探索だった。洗面所はここ、バスはあそこ、でも俺はこっちの作業スペースに大体いるから分からないことがあればいつでも呼んで。電話はアトリエにいると聞こえないから、取次だけ頼むよ。そう、仕事の電話ー。
 説明する栄樹(えいじゅ)の身振り手振りが大きくなる。三年も一緒に暮らした家に戻ったら、きっと何か思い出すんじゃないかと思ったが、杏珠は所在なさげに頷くだけだ。もともと美容院だった中古物件をふたりでリフォームした。矢羽根のモチーフの縦長の窓を杏珠は気に入っていた。薄荷色に塗りなおしたドアも、真っ白な壁も。
 そのドアを外から、力強くノックする音がした。
壊されそうな勢いでドアがガタガタ揺れるのを、杏珠は不思議そうに見た。まるで他人の家に招かれて、そこに不躾な来客があったように。
「誰だよ」
迷惑そうに呟いて栄樹は「どちらさまですか!」と声をはりあげた。この家にインターフォンはない。
 ノックが止んだかわりに、英語のつぶてが飛んできた。
あまりの早口に栄樹に聞き取れたのは、アンジュ、今朝着いた、フェイスブック、交通事故、ここなのかい?という数語だけで、そのうちアンジュは7回あった。
 何を見ても反応しなかった杏珠の瞳が開き「Jake?」と声が漏れ出た。ドアの向こうの声はいったん止んで、次の瞬間弾けた。
「イエス、イエス!アイムジェイク!」
「知り合い?」
と栄樹が聞くと杏珠は確信をもって頷いた。声を聞いただけでわかる仲なら、彼の記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれない。なにしろ、杏珠は恋人だった自分のことさえ忘れてしまった。まるっきり欠けた5年分の記憶を取り戻すに必要なのは、時間ときっかけだ。
「あ、どうも、」
と栄樹がドアを数センチ開くと、長身の男性が体をねじ込んできた。栄樹には目もくれず、奥にいる杏珠まで一歩で詰め寄り抱きしめた。
「心配した。とっても心配した。事故にあったって聞いて、居ても立っても居られなくて。また君を失うんじゃないかと思って、怖かった」
その男、ジェイクは少し癖のある英語で言った。
「ニュージーランドから?わざわざ?驚いたよジェイク。苦しいから離して」答える杏珠の口からでる英語は滑らかだった。
 病院で目覚めたときは、言葉さえたどたどしくて、簡単な言い回しさえつっかえていた。杏珠は10代後半を過ごしたニュージーランドの頃の彼に戻ってしまったのだろう。
 「ごめんよ、どこか痛むかい?」
身を引いてガラス細工でも触るみたいに、頬に手を添える。
 過去に関係があったのは手に取るように分かる。栄樹はため息交じりに言った。
「とりあえず座らない?退院して今さっき戻ったばかりだからさ、俺らの家に」

 酒に酔った杏珠が車道にはみ出し、車と接触したのが5日前。診察と検査の結果、怪我は手首の打撲だけ、問題は五年分の記憶がすっぽり抜け落ちていること。
 だから今、杏珠には栄樹と出会った時の記憶も、付き合っているという認識もない。彼の身寄りはグループホームにいる祖母凜子だけだ。彼等の仕事は鉄工芸のアーティストで、2年先まで作品の依頼で予定が詰まっている。
 栄樹の説明にジェイクは自分の早とちりを大笑いした。
「大したことなくてよかったって?そりゃそうだけど俺には大事故だよ」
栄樹は苦い顔になる。
「仕事のことはなるべく迷惑かけないように努力する。たぶん色々忘れてるから」
仕事もだけど、と言いかけて栄樹は口をつぐんだ。
「きみの天使を取ったりしないさ。俺は5年前に振られてるからね」
ジェイクが栄樹の気持ちを見越したように言った。その態度が余裕綽々なのが彼の気に障る。
「でも日本にいる間、お守をするくらいはいいだろ。彼、とても不安げだ」
「好きにしなよ」
「その八方美人どうにかしろよ。どうせ向こうにも誰か待たせてるやつがいるんだろ」
居丈高な言い方をしても、ジェイクに対しては杏珠はリラックスしている。まあね、と笑うジェイクを栄樹は横目で見てすぐ視線を外した。
「自分でも、こんなモノが造れるようになってたなんて驚いたよ」
アトリエに並んだ作品をみて、杏珠が微笑んだ。
冷たい印象を与える端正な顔から鋭さがぬける。杏珠の笑顔を見るたび、栄樹は朝露とか満天の星空とか人ではないものの美しさに触れた気になった。
「ジェイクの叔父さんの農場で、溶接を教えてもらったんだ。自給自足の生活をしていてね、なんでも自分で作るんだ。鉄が扱えると造れるものに幅が出る」
そうやって技術を磨き、日本に帰ってからは木と鉄を合わせた作品を作り始めた。
栄樹と出会ったのは都内のギャラリーだ。最初から息がぴったり合った。一緒に個展をするようになって、いっしょに暮らすようになった。
入院中にそう説明されたが、杏珠はピンと来なかった。
帰国したのは祖母が倒れたと聞いたからだ。そこはぼんやりと覚えている。両親は彼が赤ん坊のころ離婚し、母親は小学生のころ男と出ていきそれっきりだ。自分を育ててくれた祖母のことが誰より好きだった。
ーおばあちゃんに会いたいな。
杏珠の手は作りかけのオブジェに触れて止まった。
「それ軽井沢の式場から頼まれてたやつだよ。『天使』を造るっていってたな、杏珠」
栄樹の大きな口から歯がのぞく。この素朴そうな男のどこを好きになったのだろう。笑いながらも目には祈るような切実さが滲む。思い出して、思い出してと能弁に語る。
ーおばあちゃんに、会いたい…
杏珠は再びそう思った。

 祖母凜子の暮らすグループホームから自宅までの帰り、栄樹が運転する横で杏珠は一言も発しなかった。栄樹は彼の過去についてはほとんど知らない。かける言葉が見つからなかった。
深夜、物音に気がついた栄樹がアトリエに行くと、杏珠が作りかけの『天使』を一心に削っている。
「杏珠」
声をかけると手が止まった。『天使』の胸の部分は大きな空洞になっていた。
「こんな大人になっていると思わなかった」
と杏珠は喉から絞り出した。
「思い出のつまった家を売って、ボケたからっておばあちゃんを施設に入れて、俺は知らない男と暮らしている…」
涙が一粒零れると、もう後は止まらなかった。
栄樹は月並みの言葉を並べた。月並みの言葉だと思いながら、吐くしかないセリフが無力感を募らせた。
付き合っているとか愛し合ていたとか、そんな事実は今は杏珠を苦しくするだけだ。いっそジェイクに託してしまえば、杏珠の負担は減るかもしれない。
ひとしきり泣きじゃくったあとで、杏珠は言った。
「忘れられるってキツ過ぎる」
祖母は杏珠のことが分からなかった。愛する人が、自分を忘れてしまう。それ以上に悲しいことがあるだろうか。
「キツイんだよな、…あんたも」
杏珠のつぶやきが、思いがけない軌道を描いて栄樹の柔らかいところに届く。
「…それでも俺といてくれるの?」
「もちろん」
「このまま記憶が、ずっと戻らない、かもしれない」
「それでも」
「何かが大きく、欠けた気がする」
杏珠の手に『天使』を握らせると、栄樹は言った。
「杏珠は杏珠なんだ。俺のこと忘れてても、もう一度好きになってもらうよう頑張るから…、そんな簡単に手放せるもんじゃないから」
杏珠の目が栄樹を捉えて、それが栄樹の最後の一言を押し出す。
「一緒にいて、杏珠」
杏珠が瞬きするとまなじりに光が揺れた。






  
 

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