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愛は理解の代用にはならないよね、って「宗教が往く」を読んで思って書いた。

松尾スズキの小説「宗教が往く上・下巻」の感想です。
ネタバレ気味で、エログロな内容が含まれます☆〜(ゝ。∂)

1・“読む時”がきた、むこうから。

演劇界の鬼才松尾スズキの初の長編小説、とのふれこみで出版されたのが2004年。かなり前だ。
松尾さんのエッセイは好きでいくつも読んでる。なんで小説は一冊も読んでなかったのかな。書店で平積みされてるの見るたび、何度か手にとってるのに。
たぶん、当時のわたしは解毒能力がないと踏んで、思いとどまったのだろう。
(一人称を「わたし」にしたのは松尾さんへのささやかなリスペクト)
松尾スズキ主宰の大人計画(チケットの取れない劇団になって久しいが・・・よく観た)の舞台はとっても毒が強い。
案の定、「宗教が往く」も毒が強かった。
というか、毒の原液。(エロ、ゲロ、暴力、レイプ、殺人、変死、ドラッグ、精神疾患、スカトロの濁流。そういうの好きでもないし体力削がれるし、夢見も悪い。)
でも面白い!
一文一文が闇雲に面白い!
後半、ちょっとダレてるが勢いがついてるから、ノンストップで読める。

ところで、前書きが100頁もあるのだが。kindle換算で28パーセント。一冊の四分の一が前書きの本って、前書きの概念を覆してる。
その長ーい前書きを読んでいる間に、世の中は一変してしまった。
コロナ変わりしてしまった。
さて、本には縁があると思う。読むべきタイミングがあると思う。
2004年に出された「宗教が往く」は、[ヒヒ熱]という未知のウィルスに侵された日本が舞台だった。
時間があって何でもいいから長い小説を読もうと買っただけなのに、読むべくして選んだ感がある。

今、世の中どうなってる?(4/30現在)
少し前は何万本のチューリップの花を、人避けのため刈り取っていたし、今度は芍薬の花も借り取られてた。そんなニュース見て、まともじゃないことをしてる、と思った。
もちろん、刈る側にはまともな訳がある。
まともな人がまともじゃないことしてる。
自粛や予防だってどこまでやったら正解か、分からない。
なにがまともでまともじゃないかって、コロナが終息してみないとわからないんじゃないかな。
今、まともとまともじゃないが紙一重で、どっちにでも転ぶような危うーい所にいる。
コロナをきっかけに、普段見えない危ういところが漏れ出して、世界全体を感じの悪さが覆ってる。ふう、厭だなぁ。

それが本を読み始めて思ったのは、いやまてよ、世界は元々そんな感じいいものではなかったよね、ということ。自分だって紙一重だ。
巨頭の少年フクスケの出生と母の冗談のような死。
そこから始まる物語は、人間が人間であるというだけで、どうやったって転落していくしかない虚しさとか、怖さとか、いやらしさとかに満ち満ちている。
改めて言うまでもなく、世界は不条理で無慈悲で、人間はいつも滑稽だ。
ささやかなニヒリズムに浸って、中二病を満足させてもらった...。
という話ではないのだ。
松尾さんの「宇宙は見えるところまでしかない」という世界観、および律義な足搔き。
攻めに徹しても地獄、守りにまわっても地獄。右を行っても地獄、左を行っても地獄、前も後ろも、すべての道は地獄行き。
誰も彼もの救われなさを道ずれにして、どこに行く気なのかわからないストーリー。
その中で、松尾さんが誤りでドラッグ4倍接種して、幻覚を見ながら思い描いた小説のラストへの道行き。
混乱の中で光る蜘蛛の糸にすがって、痛い目見るのは目に見えてるのに、その糸の輝きに一瞬の救いをみるような、そんな小説。


2・作者とは誰なのか?どこにいるのか?

長〜い前書きで、松尾さんがまず言及してるのは、三人称で書かれた小説の地の文で気配を消してうやむやになってる「作者」という存在についてだ。

三人称で書かれた「そのとき陽子は思った」がわからないのは、「陽子が」「思った」のはいいとして、それを書いているおまえ、おまえはいったい誰なんだよ、(略)
じゃあその作者っていったいどういう奴なのか、どこでどういう状態で書いているのか、あんた陽子の何なのか。それが分からないのだ。

ああ、痒いところに手がとどく。
わたしも小説のようなものを書くとき、自分の立ち位置あってる?って密かに思っていた。
出過ぎてない、下がり過ぎてない?いないはずのわたしの姿、読者に透けてない?
そんなふうだったので、予め作者について言及してから小説を始めるのは、反則か?いや、ある種のおもてなしだなと思った次第。
それで松尾さんは、三人称における作者の立ち位置を明確にした後、自分とはこんな人間で、彼女カオリとはこういう付き合いで、この小説はこんな塩梅で書くよと教えてから、「わたし」としての姿を消す。
エログロが苦手な人は完全に置いていくけど、それでも「読者」はおいていかないよ、というサービス精神みたいなものを感じる。

「宗教が往く」はそんなお茶目な松尾さんが、底辺の愉快な仲間たちと共に劇団「大人サイズ」を立ち上げる、までがおそらく半自伝で、劇団が宗教に乗っ取られ、混乱と激動の中、死出の旅に向かう話で、かなり壮大なメタフィクションだ。

おもてなしだと思っていた長~い前書きが、裏切られるが、裏切ってからの小説における「わたし(作者)」の絡めかたが厄介だ。多分、並みの書き手には不可能な超難易度の技をかましている。

それについては後ほど書く。



3・自由自在で、重さと軽さの混在から生まれる小説のスピード

 松尾さんの文が面白いのは、物語のなかのふとした文やセリフの中に、「そう、それそれ!」と上手いこと言い当てられた妙な説得力があるからだ。

例えば、主人公のフクスケは、15で女中を妊娠させて故郷にいられなくなる。親戚を頼って上京するが、「自動純粋アル中製造機」のカネコとイラン人のアボルガセムと、山手線を日がな一日周回することになる。果ては親戚の怒りを買い門前払いされ、有り金の入ったカバンはカネコごと消えている。小指を骨折し腫れて凄い有様(でもフクスケは痛覚がマヒしている)にさえ気がつかない彼は、

根拠のない吞気は幼い頃から友達を必要としない彼の唯一の友である。

と説明される。
フクスケがのっぴきならない事態に追い込まれるのは、ほぼ災難。頭が大きいこと以外、特に主張のないキャラクターで、この一文がしっくりくる。
プテラノドン似のカネコはこう語る。

「愛だっつうしか説明着かないもの。俺の不可解な行動は」
東京通過。
「いや、偽善かな。悪い。偽善と言っても全然説明つくわ」
神田通過。

アボルガセムは、「カネコサン、イイ人」しか言わない。
それで、カネコを救わんがためにヤクザ相手に大立ち回りを見せるが、顔も竿もつぶされたカネコの脈をとり、
「カネコサン、イイ人ダッタヨ」。
さすが劇作家。
無意味な乱闘の無意味な死が、このセリフで生きる。

登場人物の主張もなんか面白い↓。

人間ってホレ、顔が物差しでしょ。(略)
顔からはみだしてないっていうね。やってることが顔以下でなし、顔以上も望んでないし。ぱっつし顔サイズだもの立ち居振る舞いが。そういうのがアレだっていうの。人として喜ばしい生き様だっていうのな。
大久保の空はなんだろう。人になれ過ぎた猫が足元に媚びるがごとく、上目遣いに晴れていた。晴れ媚びていた。斬新なんだけど困った事態。

なんだろう、晴れ媚びるって...。

乱闘中の無意味な質問、無意味な怒り、それに使われるカロリーが延々描写されるシーンが下らな過ぎて面白かった。
抜粋したいけど、長すぎるのでやめとく。代わりに、前書きの中でガンギマリで可愛くなってる松尾さんの挙動。

やっとわかった。彼女は凄い女だ。(略)
ただ、尊敬の念が彼女に行き届くよう、両手をぐるぐる回して風を送ってあげることだけは忘れてはならないと思った。

その一方、

彼女は一日中一人で古いレコードを聴いているのだ。(略)廊下の暗がりに再び懐の深い孤独が訪れた。なぜかしら。哀しい話の句読点のように「ふふ」と彼女は笑った。

と詩的になったりする。


4・「あたしを分かれ!」身もふたもない承認欲求と表現欲求

 

わたしは「笑い」(お笑い)というものの間に、壁を感じてしまう。
コメディは好きだし、冗談にはすぐ笑う。なのに感じるこの隔たりは、わたしがクソ真面目ゆえだろうか。
テレビに映るポピュラーなお笑いを目にしても、人の失敗を笑ったり、恥ずかしいことをしたり、痛い思いをさせたりして、この人たちは何が面白いのだろう、と感じる子どもだった。
その感覚のまま大人になり、随分損をしている気もしつつ、やはりお笑いを上手く受け止められない。

 だから作中の登場人物が、また、彼女カオリと別れてみじめなオッサン臭しかしない作中の松尾さんが、どうしても笑いをやる!というモチベーションがなんなのか分からない。
 
 でも、下北沢の狂犬女と呼ばれたミツコのストレートな叫びに、あれっと思った。
過激で意味不明なネタと、過激な言動で劇場からは出禁、グループ内では喧嘩沙汰。
お客にわかって(ウケて)てほしいなら、歩み寄りも必要だよミツコさん、とわたしは思うがミツコは振り切れてる。舞台でもプライベートでも、全方位で振り切れている。
振り切れて、松尾スズキの分身である松尾ミズキをグーで殴り飛ばし、

松尾の脇腹の辺りにひねりの入った蹴りを入れる。
「わかれ!あたしをわかれ!」
あまりの痛さに両手でガードするがミツコの蹴りの方が強い。何度も何度も松尾のみぞおちに爪先を打ち込む。「あたしをわかれ!」。絶叫しながら己の孤独を注入するように何度も。「あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!あたしをわかれ!」

の暴力の雨あられ。
でもこの叫びにミツコの寂しさが凝縮されてるように感じる。
酷いシーンなのに、松尾も可哀そうだが同じくらいミツコも可哀そうだ。
「わかられたい」というのは、寂しい欲求だ。
理解されたいという願望は、孤独からくる。孤独が深ければ深いほど、願いも強くなる。
それが愛にたどり着くこともあれば、「表現」にたどり着くこともあるということなのだろうか。

彼等にとって笑いで受けいれられるということは、孤独を癒すことと等価なのかもしれない。
テレビに出るとか、劇団を大きくするとか、儲けるとかやり過ごすとか、モテるとか、そういう欲望のもっと根底に孤独への抗いがあって、笑いという一点を目指す。
微笑みかければ微笑みが返ってくるわけではないことを知っている彼等は、力づくで笑いを取りに行く。
うすら寒いような狂気を感じる。

芸も生き様も、誰の理解も追いつかないところでミツコは常に孤独なファイターだ。
同時にその凶暴さは愛の渇望でもある。
この件のあと、同棲していた松尾ミズキに去られ、入れ違いにフクスケと暮らし始める。
セックス先行で、二人はお互いを愛するようになるが、ミツコはあいからわずミツコ。
日記を盗み見て、フクスケの愛に気が付くというベタな展開で、ミツコを満たした愛の深さはそのまま孤独の深さなんだなと思う。

たった五十数人の客の爆笑であった。
一時間後にははかなくハラリと消えゆく爆笑だった。
でも今このとき。この瞬間。もし、嘘でも。
この瞬間が永遠に続くことを誰かが約束してくれたなら、一秒後に死んでもいい。
ミツコは本気で思った。
涙があふれた。客をののしり、大笑いしながら、落ちたマスカラで顔に二筋のドブ川を作っていた。
フクスケは笑いながら見ていた。あれは笑ってもいい涙だ。と思った。
ミツコは叫んだ。
いや。口にはしないが心で叫んでいた。
「あたしはわかられた!」
何度も何度も叫びたかった。
「あたしはわかられた!あたしはわかられた!あたしはわかられた!」

ミツコの芸はミツコ自身だから、わかられる→受け入れられている→愛されているのフローが、逆もしかり。愛と理解には互換性がある。
でも、ミツコほど実生活と芸風が地続きの人もいない。
小説の中には、知念サダヲという、舞台もリアルも境界がない生粋の狂人がいる。
彼等はある意味、裏表がない。ないから死ぬほど不器用。
わが身を振り返れば、羨ましいと心のどっかで思っているのは、愛は理解の代用にはならないと諦めているためか。
「わたしをわかれ!」とは、思っていても口には出せない。
自分の人生を切り売りして、笑いへ昇華させようとする姿勢はストイックすぎて、降参。

フクスケ(と女中)の子どもで、とても美しい双子のヤマコとタケルは、お互いがお互いになろうとする。
近親相姦をくりかえし彼等だけの世界を完結させながら、ヤマコは男性器をタケルは女性器を手術して備えることを目指す。姿も声も思考も性も同化する。相手を完全に理解するということは、完全に相手になること。
超獰猛肉食系のミツコと草食系のフクスケ、32歳で体は小学生のまま成長の止まったエムコ。三人のデコボコな愛やら恋やらのかたわらで、ヤマコとタケルの愛は一つの寓話のようで、またその結末も神話的だ。

5・脅威の伏線回収、全部のせで「宗教が往く」


  ラストの章になって、前書きで消えたはずの松尾さん本人である「わたし」がまた懲りずに出てくる。
(これまで松尾ミズキとか、劇団作家のフクスケとして、松尾さんはお話しと併走していた、はず・・・。)
なんで出てきたかというと、五年の連載の間に、彼女カオリと結婚したが、劇団員に寝取られ離婚に至って、しょぼくれて帰ったきたのだ。

ストーリーは今まさに佳境、というときになって、カオリ、カオリとご本人が出張ってくる。
カオリと二人でならこの世界も騙し騙し楽しく生きていけたのに、カオリはもういない。
カオリはエロくてよかった。
カオリのことを思ってこの小説書いていたのに・・・。
みたいなことを、登場人物の隙をついて入れてくる。混ぜ込んでくる。ねじ込んでくる。
松尾さん、ヤケになっちゃった?と思った。
この人、小説を書きたいのか投げ出したいのか、後者が八割だろうな、と心配が募った。

そうじゃなかった。
虚構の世界とその登場人物と作者は綯交ぜになって、物語を壊しながら、あらゆる伏線を吸引して加速して行く。物語の中から外から、尋常じゃない疾走感でラストへと突っ切っていくのだ。

針粉(ハリコナ!)さんという、どマゾのエセ宗教の教祖がいる。自分の中に神が居る、と思った教祖が、肛門から潜って出行くと(催眠術上のこと)内部と外部が裏返って、中にいた神が出てきてしまった。(と教祖は信じきっている)
神さまご一行は、テレビ局を目指して機動隊としっちゃかめっちゃかになりながら進む。
劇団員とヤク中のプロデューサーに占拠されたテレビ局は、「神さま」の到着を待っている。

その宗教は、テレビ(番組)から生まれた宗教なので、聖地はテレビ局という、だいぶアイロニックなことになってる。

神さまはまだ来ない。
プロデューサーも劇団員もみんな「神さま」を待ってる。
神さまは永遠に来ない。
だって機動隊に撃たれて教祖は死んじゃったから。
でも神さまはもう一人いますよね。
小説における神さま。そう、作者!
この状況なんとかしてくれるんでしょ。と思っても松尾さんは、「わたし」として、カオリ、カオリと情けない有様で文字の中に埋没してしまっている。
何だろう。
圧倒的な放置された感。そっぽむかれた感。神さまの不在。
そうか。
三人称は神視点、と言われるが、この演出をせんがために松尾さんは、あの前書きとラストの出しゃばりをやったのか。
そして道化の神が、矮小化された神さまがフクスケに与えたどうでもいい福音。
そんなことのために生きてるんじゃない!とフクスケに変わって叫びたい、欲しくもない奇跡。神さまのリアルは残酷。
(でも、古今東西神さまは残酷なものです。)

悲しい。

なのに、フクスケも松尾さんも愛にすがるんですよ。
状況的に無茶だから。
[ヒヒ熱]は蔓延し、占拠したテレビ局は死屍累々で、正気の人間なんていなくて、それでね、正気じゃない人間の狂いっぷりや死に様が細やかに書かれてるんですよ。
そこまで個性的に死なせちゃうのに、作者の愛を感じました。
悲しいね。
悲しいよ。




6・歯の根が合わない

  はたしてフクスケは[ヒヒ熱]をめぐり、人類にとって、悪の根源だったのか救世主だったのか。
壮大で、何も生まない。
肩透かし感なら、三島由紀夫の豊饒四部作のラストにも匹敵するのでは?
でも、読み終わり3時間ものの映画でも観てたような、集中力の引き潮に引っ張られ放心した。
放心しながら、そのエピローグを思い出し、震えがきた。
小説読んでガチで震えるとか、滅多にない。
しばらく歯の根が合わなかった。
嘘だと思うなら、読んでほしい。
ナガシマシゲオがサヨナラホームラン!
きっとそう思うから。



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ヘッダーにしようと、ふくすけのチラシ探したら、懐かしいのが出てきたよ。



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