スノのダンスを大いにこじつけて書きなぐろうと思う(まえがきと岩本照編)

2021年、3月だそうです。

前回の記事から約1年が経とうとしているそうです。次書こうとしてるネタは決まってるのどうのと言っていたようですが、その次のネタとやらは忘却の彼方(どないなっとんねん)


さて、ここ1年は私たちにとってのそれまでの日常がガラガラと音を立てて崩れ、よく分からないものに潰されないように、いつもより少しだけ頑張って生きる必要があって、だからいつもより少しだけ心身ともに疲弊するペースが早くなっちゃってたなと感じていて。

いつもやっている事って、例えば朝起きて顔を洗って歯磨きをする、身支度を終えたら家を出て仕事に向かい、タスクをこなして家に帰り風呂に入る、みたいな大半の人がこなしている日常の事を指しているつもりなんだけど、それは日々生きている上でやること自体がルーティーンと化していて、大勢の人はそれに対し特に意識して頑張る頑張らないの次元ではない、というのが私の認識なのだが、(余談だが、私は過去にそれすらも出来なくなった経験があるので、普通が普通にこなせる皆マジすげーと思っている節がある)、その生活の上に、なにかこれまでに感じたことの無い、見えないけれど大きな得体の知れないものが乗っかって、ただそれまでの日常を送るという特に意識してやってるようなことではないことでも、今まで以上の力が必要になった。今まで特に何を気にすることも無く乗ってた車がなんだか急に燃費が悪くなったような、そんな生活だった。そしてそれが約1年続いたことによって、ここで言うところの”ちょっとだけ燃費の悪い生活”に慣れてきている自分もいる。


芸能人も一般人も、どこに住んでいようとも、人として生活していれば等しく訪れたこの非日常は、良くも悪くも私に考える時間を沢山与えた。

元来何かと、これは何故だろう、どうしてだろう、原因・発端・ターニングポイントなど、答えがあるようでないようなものを考察するのが好きな人間にとって、こんなにあちこちに考えしろがあって、なおかつ飲食を生業としている人間だったこともあり考える時間も与えられてしまう事なんてこれまでになかった。私の考察脳が喜んでいる。オタクの考察脳が喜ぶとどうなるか、そう、たっぷりの時間を使って推しを考察するのだ。


一回目の非常事態宣言中は、私の職場は休業しなかった。いや、むしろ就労時間が2.5倍になり家に帰れない生活が続いた。連日店舗に泊まり、シャワーと着替えのためだけに家に戻り、家にいる時間が1時間に満たない日がほとんどだった。そして2回目の非常事態宣言。ついに幹部から休業すると通達があり、急に義務教育の夏休みレベルの連休が訪れた。

ここで私はデビュー年のSnow Manをできる限り1から見直した。それからなにか思うところがあれば補足のようにデビュー前にも足を伸ばし、それでいて新規の仕事も次々決まるので、文字にも映像にも追われ続けた。そして最新のデビューライブの円盤が半分ほど見終わった今、1年ぶりにnoteに残しておきたいことが浮かんだ。読んでもらえるのも共感してもらえるのももちろんめちゃくちゃ嬉しいが、これはただの考察好きなSnow Manのオタクが好き勝手に書いているだけの日本語の羅列なので、ひとつも正解など無いかもしれない。でも書いておきたいと思ったのだ。いわば私の自粛生活が産んだ文字の貝塚だ。


私はSnowManの”人間味”が好きだ。テレビの向こう側の人間を、頭ではわかってはいてもどこか別の生き物として認識してしまいがちな私にとって、私と同じ、血の通った人間であることが随所に垣間見えるSnow Manはなんだか不思議な存在だ。

ところで、それなりに生きていると人との関わり合いの中で、取り繕ったり嘘をついたり合わせたり本心を押し込めたりなんてことは日常茶飯事で慣れてしまえば割と簡単に出来てしまうようになる。伝達ツールとして使いやすいもの、例えば”言葉”や”態度”などというものほど、伝える側も受け取り側も、いくらでも真実を歪めることができることに気がつく。

そして、こと芸能界から発信されるものに関しては、そこに編集という第三者の手が加わって私たちに提供される。私のように本人が思ったままをつらつらと書いているのとでは訳が違う。またそこでひとつ、商品としてというフィルターを通されることによって、本音から遠ざかることもあるだろうし、時には全く逆の意味に捉えられるような書き方になることもあるだろう。人間が発する以上、真実を出すも出さないも自在に操れるからこそ、私は隠れた真実を知りたくなってしまう。

人は嘘をつく時に少しだけ本当のことを混ぜてしまう、ということは聞いたことがあるだろうか?私はその少しだけの本当の部分を、その時の心理やついた嘘、隠したかった本音まで含めて全て愛したいのかもしれない。そしてその少しだけの真実が少し覗けたような気になった時、心の最奥の核の部分を直接鷲掴みにされたような、言いようのないゾクゾクとした魂の震えが襲い、ますます心を奪われる。

それをSnow Manに当て嵌めた時、裸の心が見える最たるものが、インタビューでも裏側密着でもなくダンスパフォーマンス中のような気がする。彼らはダンスに真摯に向き合っているからなのか、のめり込んで夢中で踊っているからなのか、私には踊っている彼らから時に裸の心が聞こえてくることがある。(あいみょんではない)



前置きが長くなりすぎたが本題に入ろうと思う。

Snow Manは職人集団と呼ばれるほどスキルが高いので、きっとシンクロさせるのもお手の物だろう。だが見てみると全員同じ振りをしていても、決して揃ってるとは言えない。ここで言う”揃っている”とは、たとえば軍隊の行進だったりシンクロナイズドスイミングのような一糸乱れぬ動きのことだが、Snow Manは細かく見ると、全員が同じ振り付けで踊っている時でも、手の伸ばし方や首の角度など、それぞれ統一はされていない。

だがバラバラと言うにはあまりに乱暴すぎるほど完成されていて、ひとかたまりとして成立させている。私は実はこれは凄い事だと思う。

私は元バレエ畑の人間なので、全員が全く同じ動きをするということに対して、少々厳しい目を向けてしまっているかもしれない。が、自身の経験から、Snow Man程の意識の高さと、オンもオフも一緒に過ごしているらしい長い時間を加味すれば、関節の向きや角度を合わせることなど言及さえすれば容易く、自ずと回数を重ねるごとに視線の動かし方や呼吸まで揃って来るであろうほどのポテンシャルは既にもちあわせている集団だ、とも思っている。

シンクロしている、と人が感じる動きを”する側”は、そこに個性など存在してはいけないかのように、おのずと全員がひとつの正解に固執していく。が、彼らSnow Manは彼らそれぞれが1番気持ちがいいように踊っているように見える。正解がひとつではなく各々それぞれの中にニュアンス違いで存在していて、統一していない。振り付けをメンバーがやっている曲もあるのだから、直そうと思えばいくらでも直せるのにやらない。また、高いスキルも持っているので隅々まで拘ってそれこそ軍隊やシンクロナイズドスイミングのように一糸乱れぬ動きのダンスを踊ろう、だから合わせようと言う話が出れば合わせるだろう。多分彼らなら寄り目にして見ているかのような出来で仕上げて来るだろう。でもやらない。いや、する必要が無いのだろう。それはおそらく手がこうで足がこうでというような、形の上と言うべきか、視覚的な正解には囚われていないから。

彼らの”揃ってるけどひとつ”な要因は、そういう内面的な部分の根底が9人一致しているからかもしれない。だから細かく見たらしっかり揃っているわけではなくても、ただ同じ振り付けをしているという訳ではないひとかたまりに見える。それは彼らがアイドルであり、個性を持ち味として輝かせているからであり、同じ振り付けという素材からそれぞれの個性で料理したものを披露しているからで、この曲で踊る自分が一番楽しくて気持ちがいいダンスの解釈がそれぞれ違うのだから揃うはずがないのだ。揃わなくて良いのだ。それがSnow Manとして揃ってるのだから。個性豊かだがまとまっているというのは矛盾しているようだが、そんなSnow Manがそこに存在してしまっているから不思議なのだ。だから見てしまう。なんやこいつらめっちゃオモロいやんけ(今更)

そして更に、Snow Manとしてダンスがまとまって見えるのは、圧倒的にいわふかのおかげだと思う。

ここから先は感覚的な意味合いでの言葉遣いが大半になってくるから、なんだそれ伝わねーよアンポンタンめがと思ってもらっても一向に構わないんだが、何せ自分が一番Snow Man一人一人を表す日本語が見つからないことに絶望してるので許して欲しい。

全メンバー語っていくつもりだが、何せ遅筆の極みのオタクなので、アリが富士山登頂しているとでも思ってもらえれば幸いだ。

Snow Manが振り入れ時やレコーディングで初めて楽曲に触れた時、どんなアプローチをしているのか、ダンスから見る等身大の彼ら、私が拾い上げてしまったダンスから見た彼らの成長などを書いていけたらと思う。


先程のなぜいわふかがまとめ役だと思うかについて、それは2人がその曲の振り付けの「”正解”の対」にいるダンスをするからだと思う。

2人ともある意味でニュートラルであり中心を捉えていてその振りの正解を踊っているのに、それぞれ外枠を担っているかのような正反対さも感じる。そして”抜く”。一言で抜くと言っても似ているし正反対。同じ道を歩きながら正反対とかなんなんだよ夫婦か?

まあそれでいえば、だてこじも音の使い方が正反対だし、さくラウ、めめなべそれぞれファーストインプレッションでの曲を自分のものにするやり方が正反対だ。あべちゃんはそういう意味では全員と似て非なるものを持っている。

こんなに一致しないメンバーを、いわふかが正解の枠を広げてぐるっと囲っているから、ひとつになって見えるのではないかと思う。(それでもいわふかの親和性と対称性には頭を抱える)



まずは岩本照。

Snow Manは曲を自分のものにする時、どうやってアプローチするんだろうって考えながら振り動画を見ていた時、それを言葉にするのがメンバー内で1番難しかった。照のダンスを見て、私の日本語の引き出しをありったけ開けまくったけど、ちっともしっくりくる言葉が見つからなかった。やっとこ引っ張り出してきた言葉が”登場人物”だった。主人公ではなんだか言葉のニュアンスが強すぎるんだよなあという感じだが、照は曲の中に確かにいる。なんやそれ。全然しっくり来てないがとりあえず解説したい。

照は曲を自分に取り込む時に、歌詞から入っていくタイプではないかと思う。初めて読む本のページをめくって、この後どうなるんだろう、なんて想像しながら読むことで取り入れ、歌詞の中の僕だったり君だったり私だったりあなただったりする何かに感情移入して自身の中にある似た記憶とリンクさせて追体験するようなイメージ。そこに曲調を後入れして自分の中の正解を導く。そしてその正解ってのの理想、多分めっっっっっちゃ高い。

そのめっちゃ高い理想に近づくために多分めちゃめちゃ努力してる。そして体の動かし方をよく知っていて頭で想像した動きをそのまま体に落とし込める。少し伝わりにくいかもしれないが、例えば両手を真っ直ぐ横に伸ばしているつもりでも少し下がっていたり上がっていたり、自分はやってるつもりでも頭で思い描いている動きとのズレがあることがある。多分照はこのズレがとても少ない。自分がこう動くとどう見えるかを想像して動くことが出来る第三者の目のようなものを持っている、というべきか。そんなふうに見える。逆にそれが一番苦手なのは目黒だと思う。目黒についてはまた後述。

あと多分、ダンスとメンバーに対して懐が超広い。Snow Manの楽曲を数多く振り付けしている彼だが、メンバーが振り入れの時と違う動きにアレンジしても直さない。振付師からすると治したくなるし揃えたくなるし時には怒ったりするような場面でもあるが、そのままにしている。メンバーに対する信頼か、はたまた放棄か、本当のところは分からないけど、広い心で見守っていることは確かである。…と、この話は過去の私が悲鳴をあげ始めたのでこれまでにしよう。(振付をかじった懐激狭女の供述)

長々書いた照の特徴は、確実に最近になるにつれて増してきている。表情や動きから歌詞や曲が聞こえることは昔よりも増えたし、メンバーが増えただけではない、もっと違う意味でSnow Manのダンス全体の圧が増したように思う。照自身、増員からデビュー、そして今日まで、苦い思いも嬉しい気持ちも沢山味わったからこそ大きくなった人間性が、少しだけ出ているのかもしれない。


とりあえず追記もするかもしれないけど今回はここまで。次回に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?