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やれ人生哲学だやれ論語だ……自らそこに向かうならまだしも、押しつけは良くないと思ったのでした

こんにちは。通りすがりのINTJです。

縁あって、この度京セラのあの、標語みたいなやつ…あれなるものに触れる機会がありました。

まぁ、アレンジはされてましたが。

話し手は、論語も交えてテキストを朗読していました。

突然ですが、私は、哲学が好きというより、経験や事実に基づいて自分で考えて、自分なりの答えを出すのが好きです。
その答えは、自分なりに納得していて、自分の生き方を作ってくれています。

それを前提に、みんなで輪になって、例の言葉の羅列をひたすら朗読する姿をみてるのだ。

毎朝、毎朝、毎朝…

宗教じみていて、気持ちの悪さを感じた。

こういった指標のようなものは「強要」するものなのだろうか。

考えさせられてしまう。
それは、標語に対するものではなく、こんな事をしていて、果たして浸透するものなのだろうか?
そもそもそれを覚えることにリソースを割いてて、大丈夫なのか?

自分で考えて導き出した答えに被せて「論語にあった」とされたら、少なくとも私はいい気はしない。

論語テキストっていう「近道」と考えるのであれば、自分で体感して、考えて導き出した答えが「非効率」と考えるのであれば、考えずして近道を通って来た人たちの底の浅さを見ているようで、それも気分が悪い。

だからといって
誰しも、苦労して答えを導き出せと言ってるわけではなくて。 

その気もないのにただただ読み合わせをしているのが、声を合わせて呪文を唱えてるのが、気持ちが悪いと思ってしまうのだ。

共感なんていらない。批判もいらない。
コレは私がただ思ったことだから。

私はそれらを永遠に覚える気はないし、真剣にやってる人たちをただただオモロビトとして見守る事しかできなかった。

まぁ、つまりは

何事も押し付けは良くないよね。
組織として同じ方向を向くのは良いことだけど、他人の人生観にまで押し付けてくるそれは、洗脳であり宗教なんよ。

っってことで👋

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