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恋が愛になるとは限らない -『脳内ポイズンベリー』-


2015年に公開された佐藤裕市監督による『脳内ポイズンベリー』を観た。

簡単にあらすじを書いておく。アラサー独身フリーターの櫻井いちこ(真木よう子)は、出版社の企画したパーティーで出会った7歳年下の早乙女亮一(古川雄輝)に一目惚れする。駅のホームで偶然再開し、すんなりと付き合い始めた二人だが、アルバイトをしながら美術で生計を立てようとする早乙女と作家として徐々に成功していくいちこは、ちょっとしたことですぐにすれ違う。そんなとき、いちこは彼女の小説の編集を担当してる越智からアプローチを受ける。地味だが堅実で真面目な越智と生活力を欠いているが魅力的な早乙女のどちらを選ぶべきか、いちこの脳内では激しい会議が繰り広げられる…

魅力的だが現実感覚を欠いた男と真面目で堅実だが今ひとつ決め手に乏しい男の間で揺れ動く女の気持ちを描いた典型的なラブコメだが、脳内で行われている会議が実際に映像として描かれているところにこの映画の特徴がある。なんだか文字にしてみるとバカバカしく思えるのだけど、観てみると意外と面白い。「恋」から「愛」へ移行することの難しさが面白く描かれていると思う。平野啓一郎が『私とは何か-「個人」から「文人」へ』のなかで、「恋」と「愛」を次のように区別しているので、引用してみよう。

「恋」とは、一時的に燃え上がって、何としても相手と結ばれたいと願う、激しく強い感情だ。人を行動に駆り立て、日常から逸脱させてしまうが、継続性はにあ。ヨーロッパの概念では、プラトンも論じている「エロス」に対応するものだろう。
 他方、「愛」は、関係の継続性が重視される概念だ。激しい高揚感があるわけじゃないが、その分、日常的に続いてゆく堅固な結びつきがある。「エロス」に対して、アリストテレスはが詳しく説いている「フィリア」という概念に対応するもの、とここでは整理しておこう。(『私とは何か-「個人」から「文人」へ』、講談社現代新書、2012、128頁


この「恋」と「愛」の区別に従うと、いちかの早乙女への抑え難い感情は「恋」だと言える。映画の序盤で、いちかは衝動に突き動かされて早乙女をご飯に誘い出し、家に押しかけ、一夜を共にして、付き合うことになるが、二人の関係は日常を共に歩んでいけるほど安定したものへと至ることはついぞない。
平野啓一郎は、愛について「持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のお陰で、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか?」(同上135頁)と述べている。成功を収めつつあるいちかは、売れてないアーティストの早乙女に気を使い、自分の作品が映画化されること、そしてそれによって本のさらなる売れ行きが望めることを言い出せずにいる。早乙女の機嫌を損ねないよう嬉しさを抑えなくてはならないのだから、いちかは居心地の悪さを感じずにはいられない。

越智(成河)との関係はそれとは対照的だ。越智は、自分の作品を卑下するいちかを励まし、「作品を否定するということは自分を否定しているということ」だと言う。明らかにいちこは越智といるときのほうが自分のことを好きでいられるのだけど、そんな理性的な判断など恋している人間に説いても無駄なのがもどかしい。
結局、越智に愛想を尽かされてようやくいちこは早乙女と別れる決断をするが、その際彼女は「あなたは好き、でもあなたといる自分は嫌い」と言い放つ。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり【省略】他者を経由した自己肯定感の状態である。(同上、136頁)


いちかは屹然とした足取りで早乙女の元を去り、呼びかけの声にも振り返ることはない。そして映画は、越智と再び出会い直すことを匂わす場面で幕を閉じる。

ある人に恋をしているときに、理性的に考えていい人が現れてもなかなかそっちに行くのは難しいよなと思う。越智といちかが結ばれるためには、二人が再び出会い直さなければならないのだもの。いくら自己肯定感をあたえてくれる相手も、それだけでは愛にならないのが人間ですものね…
まぁでも古川雄輝と成河のイケメン二人の間で悩むというのはなんとも贅沢な話ではある。

(終)

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