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『花束みたいな恋をした』

『花束みたいな恋をした』の感想。
ネタバレとかなり批判的な部分があるので、注意してください。

 

1. 

ストーリーはいたって単純で、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が偶然出会ってから別れるまでの5年間を描いた恋愛をテーマとしている。小説、映画、音楽など多くの趣味が共通していることを知った2人は、たちまち恋に落ちる。

 麦と絹が共有する小説や音楽の一つ一つが、2人の絆をより合わせる糸であり、その数が多ければ多いほどその絆は強固なものとなる。2人は共通の趣味であるサブカルチャーによって結ばれているのである。

このようなサブカルチャーを媒介としたコミュニケーションそれ自体が悪いわけではないのだが、2人の関係はどこか歪な印象を与える。その原因はおそらく麦と絹がお互いのなかに自分と似た点ばかりを探し求めているからであろう。

互いの趣味を認め合い、肯定し合う姿は、2人が互いのための鏡であるかのように思えてくる。つまり、ここで2人は、自分と異なる他者を愛しているのではなく、相手のなかに映し出される自己を愛しているのである。互いのなかに同じものを見つけて喜ぶ姿は、水面に映る自分の姿を見て恍惚とするナルキッソスと重なりあう、といえば言い過ぎだろうか。

 麦と絹にとって相手がそれぞれ自分を思い通りに映し出してくれる鏡であるとするならば、それは相手が自分を望むように映し出してくれればくれるほど魅力的なものになる。そのため、2人のサブカルチャーを媒介したコミュニケーションは、相手の趣味を認め合うために、本心の抑圧を強いいているように見える。例えば、2人が別れることがほぼ決定的なものになって初めて、絹が麦の撮ったガスタンクの映画に内心退屈を感じていたこと、麦がミイラ展に行く絹に引いていたことをそれぞれ打ち明ける。やはり、本心を押さえつけてまで相手の鏡であろうとするコミュニケーションは、どこか臆病で歪だ。

ここで同時に二人のサブカルチャーを介さないコミュニケーションの希薄さが浮き彫りになる。麦は、絹に一言も相談することなく、イラストレーターの道を諦めて一般企業に就職することを決める。絹の方でも、医療事務の仕事を辞めて、イベント会社に転職するが、麦にはすべて事後報告である。同じ部屋で生活する2人にとって、就職や転職は話し合うべきライフイベントだろうし、イラストの仕事の悩みを互いに共有しても良かったのではないかと思う。

 こうしたコミュニケーションの希薄さは、麦が、仕事を始め、これまで打ち込んでいた趣味を享受する時間がなくなると同時にさらに表面化する。サブカルチャーによって麦と絹を結びつけていたのだから、その支えがなくなったとたん2人の関係が歪になるのは当然である。2人が痛々しいほどにすれ違う様子は、観ていて息苦しくなる。結局2人の関係が修復することはなく別れを決意する。

 最終的に別れてしまう2人であるが、観覧車の場面で、ガスタンクの映画やミイラ展について本音を打ち明ける姿から、存在しえた2人の明るい未来をも感じとれるのではないだろうか。サブカルチャーを媒介にコミュニケーションをとることが、相手の趣味を完全に受け入れることではない。共通の映画を愛好しながらも、その映画の享受の仕方について、語りあうこともできたはずである。〈何を〉ではなく〈どのように〉に焦点が当たれば、つまり、2人が同じ趣味を持つことに安心感を覚えるのではなく、作品を鑑賞して抱いた気持ちなどを率直に話すことができれば、もっともっと2人の関係は良い方向に向かっていっただろうし、2人のサブカルチャーに対する考え方も良いものになったのではないかと思う。最後の観覧車の場面。そして別れを決意してからの仲睦まじい2人の様子から、そんな妄想を抱いてしまった。そして、『花束みたいな恋をした』を治癒の物語として受け取りたかった。

2. 『花束みたいな恋をした』は大人になることを描いた物語か?

 『花束みたいな恋をした』について書かれたものを読んでいると、この映画を「自分のことを特別だと思っていた人間が、じつは凡庸な存在だった」という物語として解釈している批評を幾つか見つけた。大人になるということは、社会と折り合いをつけることなのだと。

この解釈に従えば、ファミレスで別れ話をする最後の場面は、麦と絹が実は平凡であったことを突きつけられる残酷な場面ということになる。しかし、麦と絹よりも年上の僕は、この解釈はひどく残酷なのではないかと思う。

 例えば2人のサブカルチャー受容が皮相であるという立場をとる小野寺系さんは、イラストレーターの道を諦め、一般企業に就職する麦について次のように述べている(※個人的に小野寺系さんの批評は好きでよく読んでます)。

麦は正社員として働き始めた当初は、余った時間で創作活動や作品鑑賞をすると言っていたが、それすらも投げ捨ててしまっている。彼にとってポップカルチャーというのは、体力を削ってまで取り組むものではなくなってしまっているのだ。

確かに、このエピソードを麦のサブカルチャーへの愛が偽りだったとして解釈することも可能だろう。しかし、麦の勤め先は、いわゆるブラック企業だ。取引先で「死ね」と言われたり、つばを吐きかけられたりするし、残業も当たり前。

麦はこうした社会から受ける理不尽な仕打ちをすべて「責任」という言葉で引き受け、ボロボロになってもなお働き続ける。過酷な労働環境は精神を磨耗させる。果たして麦は、創作活動や作品鑑賞をすることを「投げ捨てて」しまったのだろうか?

 はっきり言って僕は、麦の職場の労働環境を見ると、簡単に麦のサブカルチャーへの愛が表層的なものだったと断言する勇気はない。創作活動はもちろんのこと、作品鑑賞をするにも体力が必要である。もし、麦が定時で帰ることができて、しっかりとした余暇を持つことができたのであれば、創作を辞めた麦のポップカルチャーへの愛がその程度のものだと言い切ることができると思う。しかし、明らかにそうではない。そのため、まだまだ若い麦のサブカルチャーへの愛を簡単に偽物だと言い切ってしまうことが躊躇われるのだ。

 麦に欠けているものがあったとするならば、やはり上述したように、絹と親密なコミュニケーションの欠如にあるきがする。もし、2人の間に内密なコミュニケーションが成立していたならば、絹が望む生活と働き始めてからの麦の理想がかけ離れていることを認識することができたであろう。そうすれば、文化的なものを享受しながら、2人で無理のない生活を送ることも不可能ではんなかったのでないか。

 もちろん、麦に同情ばかりしていられない。働き始め、「責任感」という言葉を頻繁に口にするようになった麦は、絹が勝手にイベント会社を辞めたことに対して怒りをあらわにする。「俺が稼ぐから好きなことをしておけばいい」という発言には、女性を軽視する麦の思想が現れていることもはっきりと指摘しておきた。

 正直なところ、『花束みたいな恋をした』のなかで、脚本家坂元裕二と監督土井裕泰がこの2人のことをどのように解釈しているのかはわからない。しかし、ここまでサブカルチャーを愛する2人をあげつらう必要はあったのかなと思わざるをえない。

 単に麦と絹のサブカルチャーへの愛が表面的で、ありふれた存在だったことを知るのが大人になることだと、この映画が伝えたいのであれば、坂元裕二にちょっとした怒りをぶつけたくもなってくる。

社会との軋轢のなかでも、2人がサブカルチャーを享受しながら、同時に愛を育むことは可能だったのではないか。観覧車の場面はその可能性を暗示していたのではないか?

 僕は、自分よりも年下の麦のサブカルチャーへの愛を企業に就職したら、辞めてしまう程度のものだったんだと片付けてしまうことはできない。むしろ、もっと2人が心からなんでも相談できる相手だったならば、そして、余裕のある企業に勤めることができていたならば、と思わずにはいられない。

 恋は生ものだなんて言って、この5年間をもう戻らない初々しい日々なんかにする必要はないじゃないか!まだまだ若いんだから、もっともっと本でも映画でも観て、セックスをしながら愛しあってほしいです。


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