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無秩序な自由

浜松市で、「働くお母さんを本気で応援する、子どものサード・プレイス」、夏休みの学童保育を開きます。

スタッフのオペレーション確認と、課題の洗い出しのため、希望者を募り、プレオープンデーを行いました。やってみて初めて分かったことがいっぱいあり、やはり何事も想像ではなく実践だなと強く実感しました。

その中で、わたしが考えたことがひとつあります。

それは、「無秩序と自由」の違いについてです。

夏ラボは、夏休みを子どもたちがのびのびと自由に謳歌できたらいいと思っているのですが、その反面、家とは違う空間での集団生活であること、また、教育の場として、無秩序にやりたい放題というのは違うと思うのです。

ミューレは、これまで、子どもたちの集団を大人の威圧によって制するのではなく、子どもたちが「当事者として受け止めることのできる、良質な秩序」を与える中で、自ら考え、行動を決定する指導をしてきました。

その結果、けじめとメリハリをつけながら、「今は全体で片付ける」、「今は自由に工夫して遊ぶ」などの判断をして行動できるようになっています。もちろん、子どもなので、教えないといけないこともたくさんありますが、「自分軸」で当事者としてものごとを捉える姿勢はとても素晴らしいと思います。

たとえば、今日、駐車場に設置したプールで遊びました。

プールの中に入っている子どもたちの間で、さまざまな遊びを考え、ときにはルールを決めてみたり、ときにはバラバラに自由に水と戯れたり、大喜びで楽しんでいました。お互いに水をかけ合って、プールの外にもバシャバシャと水が溢れています。

その水が、監視役のわたしにもかかり、洋服が濡れました。子どもたちは「先生も濡れたねー」と笑っています。わたしも笑いました。

ではこのとき、前の道路を通っている、見知らぬ通行人に水をかけて笑うのは「自由」でしょうか。監視役のわたしに頭から水浸しになるほどわざと水をかけることは「遊び」でしょうか。

「水」という、切れ目のない物質で楽しそうに遊ぶ子どもたちを見ながら、考えていました。「こっから先はNG」ってことを、子どもたちはどう学ぶのでしょうか。

もちろん、「通行人に面白がって水をかけてはいけない」ということは、習っていなくてもほぼ全員が分かっています。ではわたしには?どこまでかかってもいいの?

誰に聞いても「NG」という善悪なら分かりやすいけど、境界線の曖昧な領域でどう振る舞うか、ということについて考えました。

わたしは、夏のミューレラボを通して、子どもたちに「良質な秩序」を教えたい。「今、この文化の中での秩序」がある、ということを。それは「善悪」とは関係ないということを。それが「世の中」というものである、ということを。そうして、それに「従う」ということではなく、自分軸で考え、どう「すべきか」ではなく、どう「するか」を自分で選べる子どもにしたい。

さまざまな年齢、さまざまな学校、さまざまな生き方をしてきた子どもの一時的な集団を見て、強く想いました。

今は無秩序に、自由に振る舞っている子どもたち。「自由」の範囲を、わたし(またはスタッフ)が怒るかどうかで測っている子どもたち。

わたしは、わたしの考える「秩序」をスタッフと共有して、まずは子どもたちに知らせます。最終的には、「それはおかしいと思う」と訴える子どもが出てきてもいいと思います。そうしたらみんなで考えたい。

それにしたって、「無秩序な自由」は違います。違うけれど、いわゆる「居場所系」では横行しているように思います。もしくは「暴力的な善悪の支配」。それも違う。

良質な秩序に従って行動してみて、自分で考えて、判断できるようになってほしいと思います。



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