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10年前の若くて体力あってお金があった頃のぼくと、真逆な現状のぼくとで考え方が変わってないもの… 自分が何を大切に思っているか

ふと10年前のツイートを振り返ってみた。当時はフリーランスのアニメ・ゲーム・アイドルライターとして飛び回っていたので、ほぼ毎日「○○の現場なう」とか「原稿一本上げた。次に2本目に取りかかろう」など、忙しい生活していたようだ。以降、貼り付けていくのはぼくの10年前のつぶやきだ。

今の自分はトラウマによるPTSDで社会不安障害になっているのと、体力気力も落ちまくっているから一日一タスクできれば十分といった感じで、当然、お金もなく最低限の生活をしているが、当時はバリバリ仕事して稼いでいたのでお金はあった。

しかし、10年経ってそういった心身の変化や生活水準の変化以外にも、様々な経験をしてきたり、環境が変わったりしてきたのにも関わらず、根底で思っていることは、ほとんど変わってないことが今回の振り返りで気が付いた。こうして客観的に自分の考え方を見つめ直すことで、自分が人生で一番大切にしていることや信念といった概観がすこし掴めたような気がする。

就活・大学卒業・仕事に対して

ひとの人生は、自分でどうにかできる部分はほんのわずかだ。まず、親から受け継いだ遺伝子で個体の基本スペックは決まっている。そして育った環境によってそれが伸びるひともいれば、逆に潰されちゃうひともいる。そういったスペックは、運動神経や外見だけではなく、地頭の良さや頭の回転の速さ、性格、文章力、論理的思考などにも格差が生まれる。また、たまたま良い環境に恵まれたとか、時代が良かったなどの運の要素も大きい。だから「ほかのひとができるからと言って、それが自分にも当てはまると思ってはいけない」という考え方は今もってまったく変わっていない。

この世の中は理不尽だから、どれだけ努力しても報われないことの方がほとんどだし、自分が死ぬ思いをして頑張ってきたことが、ほかのひとにとってはさも当たり前のようにできてしまうことも多々ある。だから、天から自分に与えられた手札(この身体と環境と運)でこの世の中を生きていかなければいけない。他人を羨むことや嫉妬してしまうことを無くすのは難しいけれど、もがきながらもなるべく比較せず、自分だけの幸せを模索していこうとすることはできる。だから、周りの友達がサクサク内定を取っていて自分だけがどこも内定を取れていないという子がいたとしても、自己嫌悪に陥ることなく、違う生き方をしてもいいんじゃないか。そういう思いで10年前はこの連ツイをしたのだと思う。

10年前と違う点

ただ、この10年前のツイートと今で少し考え方が違うところがあるとすれば、今は少子高齢化社会によって圧倒的に若手の人材不足なので、自分が行きたい会社に入れなかったとしても、自分の能力的にも体力的にも無理なく働けそうな職場をみつけることはそこまで難しいことではない。今は新型コロナウイルスによって進みたい道を絶たれたなんて就活生のニュースを見るが、それでも有効求人倍率は氷河期とは比べ物にならないくらい高い。選ばなければそこそこのところに就職はできるだろう。そして新卒カードは日本では未だに最強カードなので、それをみすみす手放すのはもったいない。社会人1年目なんて社会人としての常識や技術を身に付けさせてもらう、いわば勉強しながらお金がもらえる状態だから(実際企業側は人材育成に一人あたり何百万円とかけている)、よっぽどブラックなところを引き当てない限り、とりあえず就職しちゃうというのはいいんじゃないかと。氷河期世代のぼくにはこれはできなかったことだから。あと、これは実際にぼくがフリーランスとして一から技術を独学で学んできた苦労を経ての意見なので、会社でお金もらいながら学べちゃうというのははっきり言ってお得以外のなにものでもない。

ただ注意が必要なのは、真面目なひとほど、自分がそこの会社に合っていなくてしんどかったりパワハラ・セクハラしてくる上司がいるのに、辞めたらまわりのひとに迷惑がかかると思って辞めれないという問題。しかし、これもニュースを見ていれば、大手企業のトップが悪いことをして捕まってもその企業が潰れることなくまわっているのはよく目にするだろう。つまり、会社の重要なポストにいるひとがある日突然抜けても会社は存続するというのを知っておいて欲しい。つまり、まだ社員としてまともに使えそうにない入社ほやほやが辞めたところで、会社にとってはなんの損失もないんだ。残念ながら。むしろ、それで損失が出ちゃうような企業だったら、マジでさっさと辞めた方がいい。

就活はお得でしかないとは言ったが、それでも合って無ければぶっちゃけしなくてもいい。しかし、もし大学に通っていたのならきちんと卒業しておくべきだろう。「大学はやめてもいい」なんていうインフルエンサーの声に安易に耳を傾けてはいけない。

これは過去記事にもしたが、ヨーロッパに旅へ行った時、現地の大学生たちが卒業するのにかなり苦労して勉強しており、それでも落ちることがあって、向こうでは大学卒業(学士)資格があるとないとでは、その後勤められる仕事に天と地の差が生まれることを知った。「卒業できなければ4年間無駄に過ごしたことになる」とすらひとりの学生はぼくに言ってきた。卒業するのに鬱一歩手前になるくらいまで追い込んで勉強している様を見ていると、日本の大学は文系だったらどこも卒業はヌルゲーなので、卒業して学士は取っておくと、もしこの先海外の企業で働こうと思った際に、ものすごく役立つ。大東亜帝国だろうが日東駒専だろうが、海外からすれば日本の大学名なんて早慶上智も知られていないので、とにかく大卒という資格だけが重要。ただ、問題はあまりに低いランクの私立だと少子化で潰れちゃうことがあるから、そこだけは大学選びで気をつけた方がいいだろう。

今稼げているひとは自分の力だけではなく、たまたま運が良かっただけと思っておいた方がいい

そんなぼくでも10年前は年収300万は低年収だと思っていたようだ。今考えれば、年収300万は普通にボーナスなど抜きにしたら月25万だよね。額面だとしても手取り19~20ってところか。たしかに贅沢はできないが普通に暮らせてしまう額だ。当時、ぼくは季節ごとにブランドの洋服を買っていたし、食事も外食オンリーだったから、この額だとキツいと思っていたのかもしれない。今からすれば単なる無駄遣いなんだけど。しかも、特に欲しいとも思っていないものに金を使っていた。

そもそも。ぼくがフリーランスで平均年収以上稼げていたのは自分の努力だけではない。環境的に自分から営業かけなくても次から次へと仕事が舞い込んできていたし、おまけに比較的ギャラが良い媒体の編集さんから仕事を回してもらっていた。つまりこんなものは単なる運。同じようなライティング能力があってもそういうツテと出会うことがなければ、ぼくの半額も稼げなかっただろう。逆にぼくより文章が下手でもぼくより稼いでいるライターもいた。

これはフリーランスに言えることだけではなく、会社にちゃんと就職したとしてバリバリ稼げていたとしても、その会社だけにしか通用しない業務だったり、ひたすら単純な事務作業とかだったら、その会社が倒産したらあっという間にどん底に落ちてしまう。だから年収なんてのはあまり当てにならない数字だ。

現に10年前は平均年収以上は軽く稼いでいたぼくが、2020年の今現在は年150万以下の生活をしているのだ笑。未来なんてマジでどうなるかなんてまったくわからない。

金よりもひとを大事にしよう

でもね、心配することはない。実際、金がなくても生きていける。まずは稼ぐこと(入口)より支出を減らすこと(出口)が重要。それこそ当時はブランド物を買って外食して友達としょっちゅう飲み歩いていた。こうして冷静に出ていくお金の方に目を向けると、その出費が本当に自分にとって必要なものだったのか、そうじゃなかったのかがわかる。今から考えればそこで買った物や豪華な食事などはぼくの人生にとってたいして重要じゃなかった。そういうことをなるべく早くに気が付くことが大事。そして1万円稼ぐより、1万円使わない能力を手に入れることだ。1万円使わなければ1万円稼いだ事と同じなわけだから。

次にこれが肝なんだけど、それこそお金がなくなっても大丈夫な理由は、自分がずっと持ち続けていた「自分の大切な人たちを大事にする」という信念に通ずる。

20代のぼくはそれこそ親しい友人であっても出し抜いて、自分が得するように振る舞ってしまうところがあった。その時のことを今この歳になっても後悔している。だから、ある時にそういうことはやめようと心の底から決意した。だから10年前のツイートでも同じようなことをつぶやいている。

これは当時まわりにいた友人に関する連ツイとねむちゃんとのやり取りだけど、はたから見たら社会のレールから外れてしまった落伍者のような集まりでも、ぼくにとっては10数年来の大事な友人たちだ。この1年間色々あってマジで追い込まれていた時、彼らは無償でぼくを助けてくれた。魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える方法で有益な情報をくれた友達もいた。忙しい中何度何度も、励ましてくれた友達もいた。本当に感謝しかない。

自分が損するとわかっていても大切なひとであれば助ける

このことは、やはり20代の頃の出し抜き裏切りの日々を後悔しているからこそ、10年前と今とで一貫して変わらない思いである。

この1年の自分に降り掛かった理不尽も、「ここで助けたらあとで絶対に面倒なことに巻き込まれる」と自覚しつつ、自ら選択した道だ。だからその点において自分の選択に後悔はない。ただその後の展開が想像していた何十倍も斜め上をいくものだったので、自分の心身が追いつかなかった。苦労を背負い込む覚悟はあったし、それでもなるべく平穏な生活を作っていこうと頑張っていたつもりだったが、、相手にも問題があったし自分の力不足もあった。そもそも個人で対応できる問題ではなかった。そして今はそういった心的外傷のリハビリ最中である。

しかし、そんな経験をしてもこの考え方は変わらないと思う。今はいないが、またそういう大切なひとで困っていることがあったら無条件で助けるだろう。10年前のぼくも同じことを言っている。

別に「ぼくは聖人です」と言いたいわけではない。実際、たいした人間ではない。単にそこで自分が助けられるのに助けなかった場合、後悔でずっと悔やみ続けてしまうからだ。その後の面倒なことに巻き込まれるよりも、助けないでずっと後悔し続けることの方がぼくにとっては辛い。

当時これをつぶやいた時、めっちゃ桃井はるこさんに褒められてしまったが、本当にそこまで大層な人間ではないのだ。てか、こんなことを言ってくださる桃井さんこそ、何年も取材現場やプライベートでお会いしてきて、人間できている方だなとリスペクトしている。ちなみに本日はそんな桃井さんの誕生日。

※個人的にもお祝いメッセージ送りましたが、改めてお誕生日おめでとうございます。

大切だと思うひとには会える時に会っておくべき

これまた過去記事にしたと思うけど、10年前からずっと同じことを言っている。

どんなに仲良くしていても、様々な要因でいきなり会えなくなることもあるし、いつかはみな死ぬから「会いたい」という自分のこの気持すらやがては消える。だから、後悔がないように大切なひとには、自分が相手に対して心から思っている気持ちは素直に伝えておくべきだし、会える時は「どうせまた次に会える機会もあるだろう」などと面倒くさがらずに、会っておいた方が絶対にいい。

ちょっと長くなってしまったが、このあたりが10年経ってもまったく変わっていないぼくの生き方というか、信条や信念みたいなものだと思う。

みなさんにもきっと変わらずに思い続けているもの、大事にしているものってあるのではないか。それに従って生きていけば、後悔せずに自分なりの幸せを歩んでいくことができるんじゃないかな?とか笑

ふわっとした締めなのは、ぼくも未だに迷いもがきながら生きているからわからんのだよ。だって、人間そうそう悟れるものじゃないからさ。色々と経験してきて、それでもなんとなくおぼろげに自分の中にあるもの。それが自分の核であって、それを大切にしていくことが自分にとっての幸せなのではないかなと、今はそんなふうに思っている途中。

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※『中間管理録トネガワ』10巻より

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