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そうだ、シーシャを吸いにいこう!(SNS疲れ、いいね!マウント合戦に疲れたあなたへ編)

昨今、チル文化が日本でも流行りつつある。チルとは、「のんびり」「まったり」「癒やし」など、心身リラックスすることのネットスラングだ。

10年代はSNSが隆盛し、「映え」と「盛り」の文化だった

10年代、ぼくらはSNSの登場によってそれまで垣間見る事がなかった他者の生活情報が洪水のように入ってくるようになった。それによって、たとえば正月は自分の家族と実家でおせちを食べながらテレビ見ているだけで特に気にしていなかったのに、友達は家族とハワイのオーシャンビューのホテルで楽しげに過ごしている姿などがSNSを通して画像や動画で見れるようになった。昔からそういった格差はあったが、単に言葉で聞いているのと、実際に視覚情報として入ってくるものとではインパクトは天と地の差だ。また、その友人の投稿には「いいね!」もたくさん集まっている。すると、それまでおせちを食べてテレビを見ているだけで楽しかったのに、急に自分の正月が色褪せてみすぼらしいものと感じてしまう。ひとは他者との比較によって生きている社会的生物だ。他者との比較なしに生きていくことはできない。しかし、その比較が度を越したものになってくると、惨めな思いをすることや、自尊心が傷つくこともある。そこでぼくらはそんな小さな自尊心を守るために、自分の生活が他人より幸せでキラキラしたものであると、SNS上で自分の生活を「盛る」ことを始めたのだ。

この「盛る」文化によって、写真映えがいいスポットができればそこに大勢が殺到。友達や恋人、家族と一緒に楽しく遊んでいるように見える写真を加工アプリで撮影し、それをSNS上に投稿する。実際に楽しかったかどうかは重要ではなく、いかに見栄えをよくして他人からの承認の証「いいね!」を集めるか。だから、SNSはそういった「映え」「盛り」のキラキラ画像や動画で溢れるようになった。

他者との比較合戦はやがて相手をスペックで見るようになった

他人との比較が激化することで、バブル時代のスペック主義も復活。たとえば結婚相手の条件には高い年収だったり、若さだったり、ほかと比べて美人で明るいひとだったり等を追求するようになった。ほかにも、一緒に遊ぶ友達もいかに仲良し感が出せて絆といったものが見えるかどうか、そういった側だけに拘るようになっていった。

ハイスペ低スペ、陽キャ陰キャなど、他者の評価軸でひとを単純化するスラングが生まれたのも10年代からだ。周りから見て、スペックが高いか否か、陽気なひとなのか否か、そういった単純な相対評価が席巻するようになった。

インスタ疲れ、Facebook疲れと新たなストレスが生まれた

しかし、評価基準が他者との相対評価だと、自分の彼氏がそこそこイケメンで年収400万だったとして、もし同じような顔面偏差値で年収500万の男が現れたら?自分ではかわいいと思って付き合った彼女なのに友人がモデルと付き合い出したら?……自分はこのままで本当に幸せなのかと悩んでしまう。ネット上の画像や数値に自分の幸せの基準すら踊らされる事態となっていった。こういったことからインスタ疲れ、Facebook疲れ、SNSで「いいね!」がもらえないと不安になるなど、これまでなかったストレスが生まれた。

はっきり言おう。

相対評価で計れるほど、ひとの評価は単純ではない。心理学等でひとを思い通りにできないのと同じように、ひとの人生はもっと複雑系でカオスで運に左右されたものだ。ぼくもそういった単純な相対評価では測れないひととの出会いを多くしてきたし、そのいくつかを記事にもした。

「映え」「盛り」のカウンターカルチャーとしてのシーシャ

常に人間社会はA(正)ということが起こったら、必ずカウンターとして真逆のB(反)というものが起こる。そしてそれらが拮抗して新しいものが生まれる(合)。思想や主義、文化もこれをフラクタルのように繰り返してきた。それを進歩という。いわゆるテーゼに対するアンチテーゼ、それによるアウフヘーベン(対立の過程により発展的に統一すること)という弁証法的発展というやつだ。

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※ペイントでちゃちゃっと雑に書いた図ですまん笑

この10年代を席巻したSNSでの他者との比較合戦(正)に疲れたひと、「映え」とかそんなのどうでもいいよ、もっとまったりしようよというのでカウンターとして生まれたのがチル(反)である。

そのチル文化の最たるものがシーシャ(水タバコ)だ。シーシャは元々、アルコールが禁止のイスラム圏でずっと嗜好品として親しまれてきたもの。アルコールはアッパードラッグであり、それこそウェイウェイ系、キラキラ系に好まれ、陽気になれるものだ。対してシーシャはタバコの茶葉にフルーツ系からミント系など多くのフレーバーがついており、それを炭でいぶし、水で濾過することで通常のタバコとは比較にならないモイスチャーで大量の煙を吸って吐くことで独特のフレーバーを楽しむものであり、その際、大量の煙を肺に一時的に満たすことで酸欠状態が瞬間起きるので、ダウナー効果が生まれる。だから、シーシャは親しいひととまったりと落ち着いて会話できたり、ひとりのゆったりとした時間を満喫することができるのだ。

シーシャ屋さんが10年代後半から日本で一気に増えたのも、明らかにこれまで「映え」「盛り」文化のカウンターカルチャーとしての働きが大きいのではないかと思う。他人との比較合戦や「いいね!」をいかにもらうかといったことなんかより、リラックスした状態でシーシャの煙を楽しみながら、身近でオフラインの人たちとゆっくりとした時間を過ごす。また、ひとりでラップトップやタブレットを持ち込んで、何かの作業に没頭しているひとも多い。店によっては隣り通しの席とかでシーシャの味についてのんびりと語り合ったりするところもある。ぜひ、SNS疲れしたひとにはシーシャをオススメしたい。【ただただ煙を吸って吐いてしているだけの何も生み出さない時間】、【他人との比較をしない時間】というものをシーシャで味わって欲しい。

タバコは煙が臭いし、あの煙が苦手というひとでも、シーシャは吸えるひとが多い。現にぼくはタバコは一切やっていないが、シーシャの煙は難なく吸える。

昨今の世界的な流行病が起きる数年前、ぼくはドバイの砂漠のど真ん中でシーシャを味わってきた。見上げれば星空(ドバイはかなりの都市なので満天の星空というわけにはいかなかったが)、辺り一帯は草木が生えていない不毛の砂の世界、煙を吸いながらゆっくりと砂漠の大地に寝転がると穏やかな地球の温かさを感じた。

この流行病が収まったら、本場中東でのシーシャを味わいに行くのもいいだろう。

今は海外に行けないので、初心者から上級者まで、具体的にぼくがおすすめする関東圏のシーシャ屋さんを次の記事にて紹介する。あと吸い方もレクチャーしよう。吸い方ひとつで美味しさがまったく変わるのもシーシャの面白いところだ。

ちなみにシーシャとは関係ないが、インターネットが大好きだったけど、そういった「いいね!」のマウント合戦に疲れて一時期SNSを離れていたが、やっぱりネットが好き、でも他人からの「いいね!」はもう気にしないというスタンスの友達がとってもいい曲を作っていたので紹介したい。

「私が私にいいねと言っています!」(歌詞一部抜粋)

たまにはシーシャでも吸ってまったりしながら、周りの声をシャットアウトして自分自身にいいね!をしてあげよう。自分が頑張ってきたことは誰よりも自分がわかっているのだから、自分だけは自分の味方でいてあげないと。他人と比べることなく、自分を褒めてあげよう。


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