見出し画像

【ライオンズ70周年】福岡野球株式会社

なんとなく始めたライオンズ70周年の歴史を勝手に紹介する記事の第2回です。


第1回【ライオンズ70周年】「クリッパース」と「パイレーツ」→


いよいよ西鉄ライオンズが誕生して日本シリーズ3連覇など栄光の歴史…は球団HPなどで見てもらうとして、注目したいのは1973年から1978年までの「太平洋クラブライオンズ」「クラウンライターライオンズ」としての6年間。


■「ペプシライオンズ」とオーナーの「移籍」


1956~58年に日本シリーズ3連覇、63年にもリーグ優勝を果たした西鉄ライオンズだが、
69~70年に発覚した「黒い霧事件」で所属選手の八百長が明らかになり、人気は地に堕ちる。
若きエース池永正明を永久追放処分で失ったこともあり戦力はガタ落ち。
球場に閑古鳥が鳴くようになり、西鉄は球団経営への意欲を失ってしまう。
(23歳にして通算103勝を挙げていた池永は見せしめにされた面が強く、2005年に処分解除される)

1972年春、パリーグのオーナーが集まる席で、西鉄・木元オーナーは球団経営から撤退したい意向を表明する。
後継となるオーナー企業探しを託されたのは当時ロッテオリオンズオーナーの中村長芳。
岸信介首相の筆頭秘書を務めていた経験があり、政財界への顔の広さを見込まれてのことだった。

画像2


中村は日本での販売拡大を狙っていたペプシコーラを「日本球界の救世主となれる」と口説く。

「ペプシライオンズ」誕生まであと一歩のところまで漕ぎ着けるが、東映フライヤーズが不動産会社の日拓ホームへ身売りされることが報じられてしまう。
ペプシとしては自分たちだけが「救世主」でなくなってしまうこと、1シーズンに2チームもオーナーが変わる不安定なリーグの状況に不安を抱き、球団売却は白紙に戻される。
その後音響メーカーのパイオニアにも打診するがこれも断られてしまう。

窮地に陥ったライオンズだが、ここで中村が「男気」を見せる。
なんとオリオンズオーナーを辞職すると同時に、私財を切り崩して「福岡野球株式会社」を設立してオーナーに就任した。前代未聞のオーナーの「移籍」で瀕死寸前のライオンズは生き延びることになる。

買収費用は工面できたが、プロ野球の運営には金が掛かる。
そこで中村が思い付いたのがチーム名を売却するネーミングライツ。
太平洋クラブはオーナー企業ではなく、この権利を買った形だった。
しかし21世紀ならいざ知らず、1970年代にオーナー企業のバックアップが得られないのはとんでもないハンディだった。
この後6年間は常に金欠でフロントが知恵を絞り続けることになる。



■演出された「遺恨試合」


黒い霧事件と成績低迷により観客動員に苦しむ中、金を掛けずにファンを集めるにはどうしたいいか。
それまでグレーが当たり前だったビジターユニフォームに原色を取り入れたり、ホーム・平和台球場に新しい音響設備を導入するなど金がない中でも様々なアイディアを実行した。

その中でもインパクトが大きかったのが「遺恨試合」
中村オーナー以下、フロントにオリオンズ出身者が多かったこと、明るいキャラクターで知られる金田正一がオリオンズ監督務めていたこと、ライオンズ監督だった稲尾和久と金田は元々仲が良く、シーズン前から「舌戦でパリーグを盛り上げよう」と意気投合していたことに目を付け、「遺恨」を仕組むことでファンを呼ぼうと考えた。

発端は1973年5月3日の川崎球場。
大量ビハインドに怒ったライオンズファンが暴れ、試合は一時中断に追い込まれる。その際に金田監督は「九州のファンは田舎者でマナーを知らない」と発言。


ここまでは金田監督の奔放なキャラクターを考えれば想定通りだが、話がややこしくなるのはこの後。
5月下旬にライオンズは金田監督の発言に正式抗議するとともに、オリオンズに対して「(福岡遠征では)球場外の自衛については十分に配慮するように」と会見で発言。
フロントが表立って対立姿勢を示したことでファン心理にも火が付き、事態は泥沼化していく。

そして6月1日からホーム・平和台でダブルヘッダーを含むオリオンズ4連戦が始まった。
フロントと金田監督の発言に焚き付けられ、球場は3万1000人と超満員。
試合前から金田監督とオリオンズ選手に物が投げ込まれ、金田監督も砂を投げ返す異様な雰囲気。
しかもオリオンズが5-2でライオンズに勝ったものだからファンは収まるはずもない。
球場をライオンズファンが取り囲み、オリオンズ一行は球場から出られなくなってしまう。バスで突破しようにも投石などで怪我をする可能性があり、深夜まで球場で待機が続く。
最終的には警察が護送車を手配し、法を犯したわけでもないのに警察に先導されて球場を後にした。

翌年にはラフプレーをキッカケに両球団の間で乱闘が勃発すると、
ライオンズは次のオリオンズ戦を前にその写真を使用した上に「今日も博多に血の雨が降る」と題したポスターを作成。
球場警備に骨を折ってきた警察からクレームが入りすぐに撤収されたものの、この時もやはり球場で小競り合いが発生した。


当時からこの「集客手法」には批判があったが、前述のオリオンズ4連戦では11万9000人を集めることに成功。
もちろん実数発表ではないが、西鉄だった前年が平均4900人、この年も平均13500人だったことを考えれば、一連の騒動がライオンズにもたらしたものは大きかった。


6月1~3日スコア





■ハワードとドローチャー


常に新しい話題を作らなければいけないライオンズは1973年に大物外国人選手を獲得する。
それがMLBで本塁打王を2回獲得し、通算1774安打382本塁打の実績を持つフランク・ハワードだった。

現在よりMLBが遥かに遠かった時代に200㎝113㎏の巨体と実績は話題十分で、キャンプ中も連日のように大きく報道されたという。
しかし貧乏球団がそんな選手を獲得できたのにも当然理由がある。
膝に爆弾を抱えていた上に、38歳という年齢もありMLBはどこも手を出さなかったのだ。
そのため年俸も2800万円と格安だった(それでもチーム最高額)。
球団もどこまで膝が持つかギャンブルの心境だったようだが、何とか開幕戦を迎える。
しかし第3打席で内野ゴロを放って一塁へ向かう途中で倒れてしまいそのまま負傷退場。早すぎる「爆発」により、この3打席がハワードの日本での全てに終わってしまった。

その3年後、今度は監督というポジションでまた騒動が起こる。
1975年に選手兼監督を務めた江藤慎一が1年で監督を辞任。
後任としてアメリカからレオ・ドローチャーを招聘することとなった。
ドローチャーはMLBで30年以上の監督経験があり、ワールドシリーズ制覇も経験した名将。
死後3年後の1994年には野球殿堂にも選出されている。

ただこの時既に71歳ということもあり、契約成立を発表したものの半信半疑の雰囲気が漂っていたという。
球団としてはもちろん本気で、部屋の用意まで行っていたものの、キャンプが始まってもドローチャーは体調不良を理由になかなか来日しない。
3月15日になっても来日しなかったためドローチャーとの契約を破棄。
ヘッドコーチの鬼頭政一が急遽監督に就任することとなった。

結果的にはハワードと同様に「大山鳴動して鼠一匹」という表現がピッタリ。それでも僅かな可能性に賭けたところに当時の苦しさが垣間見える。


■その後

画像3

1977年にはネーミングライツの変更に伴い「クラウンライターライオンズ」と名前を変え、なおも涙ぐましい節約と話題づくりが続いたがそれも1978年に終わりを迎える。
堤義明率いる西武グループへの球団売却が成立し、「福岡野球株式会社」は役割を終え、チームは29年間を過ごした福岡から埼玉・所沢へ移転。
その後青いユニフォームを身に纏い所沢で黄金期を築くことになる。

そして2020年に登場したライオンズ70周年記念ユニフォームの袖口には、
太平洋クラブ時代を表すオレンジ、クラウンライター時代を表す赤が刻まれている。
Aクラスは1975年の一度だけと、黄金期を持つ「西鉄ライオンズ」「西武ライオンズ」に比べると暗い時代だが、この時代を悪戦苦闘しながら生き延びたからこそ現在のライオンズがある。

画像1

(70周年ユニの袖口には西鉄ブラック、太平洋のオレンジ、クラウンライターの赤、ライオンズブルー、レジェンドブルーが配色されている)


■参考文献


「極貧球団 波瀾の福岡ライオンズ」 長谷川晶一 日刊スポーツ出版社 2015年 (この時代の歴史を詳しく知りたい方はこちらの本を是非)


「虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10か月」 長谷川晶一 柏書房 2019年
「俺たちの太平洋・クラウン 福岡ライオンズ、最後の6年間」 ベースボール・マガジン社 2015年
「ベースボールマガジン 2002秋季号 日本プロ野球『事件史』」 ベースボール・マガジン社 2002年
「日本プロ野球ユニフォーム大図鑑」 綱島理友  ベースボール・マガジン社 2013年
HP「日本プロ野球記録」 http://2689web.com
HP「日本野球機構」 http://npb.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?