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栗山さん2000安打達成

2021年9月4日、栗山巧が通算2000安打を達成した(以下、普段通り「栗山さん」と呼ぶ)。
幸運にも現地・楽天生命パークのビジター応援席でその瞬間を見届けることができた。
ビジター応援席には所沢で見たことある顔ぶれが並び、誰もが栗山さんのグッズを手にしていた。
コロナ禍で応援も制限されている状況だ。以前なら力の限り栗山さんの名前を叫び応援歌を熱唱していたが、今はそうはいかない。出来ることと言ったら手拍子とタオルを掲げることくらい。多くのファンがタオルやゲーフラを掲げ、100m以上先の左打席へ熱視線を注いでいた。
そして9回表1死ランナーなし、17時ちょうど頃。かつての同僚・牧田和久が投じたアウトコースのボールを打ち返すと、ビジター応援席のライオンズファンから文字で表現できないような声が漏れた。打球がレフト前に落ちるまで実際にはほとんど時間がなかったと思うが、とてつもなく長く空中を飛んでいったように見えた。史上54人目、ライオンズ生え抜きとしては初めての2000安打が達成された。スタンドは歓喜の声と喜びの涙が入り混じったような雰囲気に包まれた。
その後は一塁ベース付近での花束贈呈やビジョンの表示を撮っていたものの、何をしていたという記憶が正直あまりない。

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栗山さんのヒットをキッカケに2点を奪ったもののライオンズは試合に敗れた。しかし敗れたことが小さなことに感じるくらい喜びと安堵の気持ちに包まれた。その後は次から次へと流れてくる栗山さん男前エピソードをチェックし、グッズを買いまくっているうちに記念すべき1日が終わっていった。

五輪による中断前から9月3日からの仙台での3連戦での達成があると言われていた。自分を含めてライオンズファンが考えていたことは主に2つ。「8月29日までの彩虹ユニでの達成は避けてほしい…」「できればホームがいい。特に仙台はちょっと…」である。理由はあえて言うまい…。
結果的にその仙台で歓喜の時を迎えたが、いざ達成してみるとそれまでの懸念を遥かに上回る喜びを抱いたというのが正直なところだ。ベストは多くのライオンズファンが見守るホームでの達成だったかもしれないが、ビジターでの胴上げが多いライオンズらしいなとも思った。

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まだ保育園児だった1998年夏、甲子園の中継で横浜高校・松坂大輔を見て野球を好きになった。その松坂が地元のチームに入団したことでライオンズファンとしての人生が始まった。最初は松坂と走攻守揃ったスーパースター・松井稼頭央のファンになった。まだ巨人戦が地上波で毎日中継され、CS放送の普及率も低かった頃だ。ライオンズの経過を見るために見たくもない巨人戦中継を見て、翌朝の新聞に掲載されるスコアをスクラップして穴が空くほど眺めた。
ライオンズが1980・90年代に黄金期を築いたことも恐らくその頃知ったのだろう。「ライオンズファン」と大人に告げ、「あー昔は清原(和博)とかいて強かったよね」と言われた記憶がある。当時を直接知るはずもないから何も言いようがなかった。
まだ子どもだったので、ライオンズは「特別なチーム」で、ライオンズの選手は一生ライオンズでプレーしたいものだと思っていた。しかし過去に清原がFA移籍していたことを知ったからか、松井稼のメジャー移籍が決まったからか、キッカケは定かではないが、必ずしもそうでないことを知った。そして「必ずしもそうでない」がその後のライオンズファン人生で度々起こっていく。

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話は戻って栗山さんだ。2002年に入団すると2004年に一軍初出場。2005年には84試合に出場してプレーオフでは先頭打者HR、2006・07年も一軍で出場機会を得ると、2008年には2番レフトに定着。最多安打とベストナインに輝き4年ぶりの日本一に大きく貢献した。
この頃のチームは若く、勢いがあり、黄金期の再来を予感させた。打線には片岡易之、栗山、中島裕之、中村剛也とそれぞれタイプが違うタレントが揃い、投手は強力とは言えなかったが涌井秀章、岸孝之はWエースになるものと思っていた。しかしその後チームは優勝から遠ざかる。優勝後に補強を怠ったこと、リリーフが弱かったことが響き、優勝争いには食い込んでも優勝には及ばないシーズンが続いた。
主力選手がみんな若いというのはデメリットもある。みんな一斉にFA権を取得するのだ。中島が2012年オフ、片岡・涌井が2013年オフ、岸は少し遅れて2016年オフにライオンズを去った。加えて細川亨は2010年オフ、帆足和幸は2011年オフにそれぞれ福岡へ旅立った。理由は色々あるし、今思い返せば球団の引き止め方も拙かったのだろう。この頃にはライオンズが選手からすれば「特別なチーム」でないことは理解していたが、かつて応援した選手が自ら移籍を選び、翌年には襲い掛かってくること、チーム強化もままならず優勝から遠ざかることに心を痛めた。

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それでも2人の選手がライオンズは「特別なチーム」であると信じさせてくれた。2013年オフに中村(以下、普段通り「おかわりさん」と呼ぶ)が4年契約で残留したのに続き、栗山さんが2016年にFA権を行使した上でライオンズに残留してくれた。ファンの間では自虐的に「FA権取得のニュースはお別れのカウントダウンの始まり」「FA権取得前年に複数年契約を結べなかったらもう終わり」とまで言われていた頃の話だ。栗山さんが語った「僕にとって(FAの)権利を残すことはそこまで重要ではなかった。ライオンズで野球をやりたいという以上の言葉は出てこない」という言葉にどれほど勇気付けられたことか。

栗山さんは誰にでも優しい。お立ち台ではサインボールを子どもに譲るように呼び掛け、運転中にライオンズファンの少年を見掛ければ自らサインボールをプレゼント、フライをキャッチしてフィールド席の子どもに手渡し、日刊スポーツのライオンズ担当だった塩畑さんの最終勤務日にはサヨナラホームランを打つ。キャンプの休日に南郷駅を訪れれば自分からファンに話し掛け、星秀和が戦力外を告げられれば運転手として雇う。そしてコロナ禍で開幕が延期になりファンと会えない日々が続いたことを問われれば「僕も会いたい。相思相愛ですね」と言ってのける。2000安打達成の記事で知ったことだが、両親には新築の一軒家をプレゼントし、奥さんとの結婚時には「誰も味わった事のないような思いをさせたるからな」と告げたという。


思えばFA権を行使して残留したのもライオンズファンに対する優しさだったのだろう。ライオンズを愛し、ライオンズファンを愛してくれた栗山さんは、自身がFA権を持ったままだとライオンズファンがどれだけ不安になるか分かっていてくれたのではないか。
本当は違うかもしれない。FA権を行使して残留すれば契約金が出ることもあるだろう。それでも「栗山さんはファンのことを思って宣言残留してくれた」「ライオンズのことを特別なチームだと信じさせてくれるために宣言残留してくれた」と思えるに足りるほどの優しさ・人間性をこれまで見せてくれた。いつか栗山さんに直接質問できる日が来て(緊張で死ぬからそんな日は来なくていいが)、「くくく栗山さんが、ざざざざ残留してくださったのって私どもへの…やさし…いや何でもないですすみませんんんんんんん」と質問したとしても、栗山さんは照れながら微笑むだけだろう。でもそれでいいのだ。栗山さんは優しいんだ。

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子どもの頃のように「ライオンズファン」と告げて「昔は強かったんだけどね」と言われても今なら言える「いやライオンズには栗山さんがいるから」と。そして公式応援歌「若き獅子たち」の一節を思い出すだろう「苦しい時も手をさしのべて 強きものこそ優しくなれる」。


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