稲刈りに 国の行く末 映りたり

老境自在(29)

 フライング気味ではあったが、緊急事態宣言解除の2日前に車で信州の山奥の道を走った。山間部の田圃は黄金色に染まり、一部では既に稲刈りが始まっていた。見かけた田んぼの1つでは5、6人の農夫が実った稲を刈り取り、束ねた稲を丸太で組んだ稲架に架けていた。なんだか懐かしい、日本の原風景を見るような思いがした。

 未だに稲を天日干ししている場所がどのくらい残っているのだろうか。コンバインで稲刈りと脱穀を一気にやってしまい、籾だけとなった稲を重油を燃料とする乾燥機で短時間で乾燥する。それが人で不足の農村での常識だろうと思っていたが、この方法は田圃がある大きさ以上でなければ成り立たないに違いない。そんな訳で、山間部の田圃には昔ながらの稲刈り風景が残っていると思われる。

 山間の道を走っていると、雑草が生い茂る耕作放棄地がそこ此処にあることも気にかかる。近年、山間地に限らず平野部でも、稲作をしている田圃の中に虫食いのように放置された土地があるのが車窓から見られるようになった。高齢化によって農村の過疎化が進めば、虫食いが拡大し、ひいては米の減産、食料不足へと繋がりかねない。戦後の食糧不足の時代を知る老人にはそんな心配が湧いてくる。

 ところが、老人の心配をよそに、今年はコロナ禍の影響で米の需要が減り米が余剰になると言う。外食が減り、家で食事を取ることが増えたので米の消費量が減ったのだそうだ。それが、外食産業では食べ残しや見込み違いで残ったご飯を相当量廃棄していたことを意味しているのなら嘆かわしいことだ。お百姓さんが苦労して育てたお米を一粒たりとも残してはいけないと親から言われて育った老人にとって、稲作とそれを支えるお百姓さん、そして農地は大切なものだとの潜在意識がある。信州の山奥で見た稲刈り風景に感じた懐かしさは、そのような複雑な気持ちによって増幅されていたのかもしれない。

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