「さよなら絵梨」という映画のような漫画

 藤本タツキ「さよなら絵梨」を読んで感情をめちゃくちゃにされてしまったので、備忘録がてら感想をまとめていきます。オタクは話題作に触れたらタイムラインに直行する前にまず自分の感想を書け!!!!!


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 以下、感想。(大いにネタバレを含みます)


「さよなら絵梨」は作中の言葉をそのまま借りることになるけれど、まさに1本の映画作品のような漫画だった。普段我々は漫画を読むにあたって、コマごとの時間が飛び飛びである物語の断片を敢えて連続性のあるものとして認識することで、それを一つの作品として楽しんでいるわけだけれど、本作はその隙間を執拗に描いていたように思う。何が言いたいかというと、本作では漫画では本来省略しても何ら支障のないシーンをたっぷりと紙幅をとって描写していくことで、映画作品さながらの間や空気感が伝わってくる。この作品構造そのものが、映画をテーマとした本作のメッセージ性により一層の説得力を持たせているなと感じた。


また、ユーモアも画面の動きが少ない中でのクスッとした笑いが中心で、これも新鮮だった。画面の変化による笑いが少なく、淡々とした会話の中にそっと差し込まれた違和感が笑いを誘っている。自分は以下のやり取りを例えば映画として観たとしても、あるいは小説として読んだとしても、いずれにせよクスッとしていただろうなと思う。こういったユーモアの普遍性みたいなものも印象に残った。

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 また、現代では俗悪なSNS文化として批判されることの多い「生活を作為的に切り取る」行為を、映画作品の美しさとして賞賛している点が印象的だった。

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 自分、あるいは他者がそのまた他者からどう思われるかを選択・決定することへの肯定的意見って、案外貴重だと思う。インスタ文化への冷笑はインターネットに生息するオタクなら日々、それこそ飽きるほど目にしていることだろうけれど、あれはあれで彼らなりの現代における生存戦略であって、オタクだって自分をより良く見せようとする振舞いに決して身に覚えがないわけではないだろう。映画作品と人生をそのままイコールで結べるものではないと思うけれども、本作に見られたこの主張は非常に現代的な感性だなと感じた。圧倒的に情報過多の現代において、ありのままで居続ける必要なんてもうどこにもないのかもしれない。それがたとえ虚勢や見栄でしかなくても、いいのかもしれない。隣の芝生はいつだって青い上に、否が応でもそれらを見せつけられるのが現代なんだから。人生は映画じゃないけれど、映画みたいな人生には憧れていいのかもしれない。


 そしてこれらに加えて、作品全体を通底するテーマとして「誰の為に映画を撮るのか」というのもある気がした。一度目の文化祭。母の為に撮った映画は嘲笑され、そのリベンジとして絵梨の為に撮った映画で観客をブチ泣かした。それでも優太が満たされなかったのは、絵梨の「他人事じゃなくて優太の話を見たい」という言葉に、応えきれていなかったことを優太自身がどこかで分かっていたんだと思う。だからこそ「ひとつまみのファンタジー」としての爆発オチが出てきたあの瞬間に、ようやく優太の為の映画が完成した。ラストシーンで絵梨と共に観賞しなかったのは、優太がそこで初めて真に映画監督になることができたことの証左だと思う。

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 この200ページ近い漫画(映画)を、本当の優太の為の物語としてまた絵梨が楽しむんだと思うと、それはとっても素敵なことだなと。とても、とても、良い漫画でした。


 少し話は変わるけれど、今の世の中にはフィクションが溢れすぎている。それゆえにファスト映画や倍速視聴に走る人もいるし、インターネットで一度クソ映画を話題を呼んだものは以後どれだけ叩いてもいいという空気も年々醸成されつつある。恐らく作中で、優太の映画をろくに観ることもしないままにクソ映画だと判断した人間も、少なからずいたことだろうと思う。ラスト2コマの3人は、果たして本当に映画を20分間しっかりと観たのだろうか。クラスの誰かに聞いただけの言葉を、借りているだけなんじゃないだろうか。そんな気がする。

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 そういうフィクションに対して無責任な姿勢は、情報過多な社会に対しての利口な処世術ではあるけれど、真に虚構を楽しむ為には受け手と作り手の双方向のコミュニケーションこそが大事だなと。タイムラインに流れる下馬評をザッと見て、感情のアウトソーシングを図るのは確かに楽なんだけれど、本来フィクションと観客は一対一の関係であって、自分だけの感想を大事にしてほしいなと思う。作品に野暮なツッコミをするのか、お約束だと割り切るのか、そういう事細かな作品との対話をするのは他の誰でもないお前自身です。


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 ところで、これは完全に余談なんですが、絵梨が吸血鬼という不死の存在であるにも関わらず自らのことを「私この”町”で誰よりも映画見ている自信があるから」と称している部分がとてもよかったです。彼女自身がフィクションというものに真に敬意を払っているからこそ、安易に私が誰より詳しいんだと口にしてしまわないその慎ましさが、とても魅力的でした。





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