「反応しない練習」を実践するための手順

どうも仏教というのはロジックで、問題(苦しみ)→原因追求→解決する心の持ち方というものらしいので、この本の概念を纏めようとすると全てを書き写すのに近い形になりそう。なので、暮らしに役立てるためには、ブッタの考えを実戦する手順を抜き出すような形で纏めるのがいいと思うので、そうする。

心の状態をみる

1.心の状態を言葉で確認する。  
心の状態を言葉で確認する。たとえば、苦手な人の前で緊張してしまったら「わたしは緊張している」と確認する。長時間テレビやインターネットで遊んでしまったときは「頭が混乱して落ちつかない」「心がざわついている」と客観的に確認する。特に目をつむって確認してみると心が落ちつく。言葉で確認することを仏教ではラベリングと呼ぶことがある。

2.体の感覚を意識する
まず目を閉じて、自分の手を見つめる。暗闇のなかに手の感覚をたしかめる。その手を見つめながら上に挙げる。動く感覚を確かめる。「手の感覚がある」「手の感覚が動いている」と意識する。手を肩のあたりまで挙げて、もとの場所まで下ろす。その間、目をつむったまま手の感覚をみつめる。
今度は、手のひらを上に向けた状態で。脚の上に置く。そこで手を握ったり、開いたりしてみる。「手を握ると、このような感覚が生まれる」「手を開くと、このような感覚が生まれる」と確認する。
椅子から立ち上がってみる。体の感覚を見つめながら立ち上がる。歩くときは、歩く足の感覚、特に足の裏の感覚を見詰めながら歩きます。体の感覚をみつめるように心がけていると「感覚を意識する」「よく感じる」 ことの意味がわかってくる(ように思う)。
同じ要領で、呼吸しながら「お腹のふくらみや、縮み」や「鼻先を出入りする空気の感覚」を感じ取るようにする。
お勧めしたいのは、通勤の「道の途中」や「電車の中」。
歩いているときは「右、左」と頭の中で言葉を確認しながら、足裏の感覚を感じとるようにする。電車のなかで立っているときには、鼻先を出入りする空気の感覚や、お腹の膨らみ・縮みの感覚を「吸っている、吐いている」と、言葉を使いながら感じとるようにする。
歩きスマホは、正直、テキトーな反応をしているだけ。やめよう。

3.頭の中を分類する。
これは、心の状態をいくつかの分類に分けて理解する方法。基本は、(1)貪欲、(2)怒り、(3)妄想 の三つに分類すること。
(1)貪欲ーーこれは、過剰な欲求に駆られている状態です。平たくいえば、求めすぎ、期待しすぎ。焦りや、人間関係をめぐる不満は、たいていがこの求めすぎる心から来ている。
自分に、他人に「求めすぎていないか」を常に気を付ける習慣をつける。貪欲に支配されると自分自身が苦しいし、関わる相手も必ず不幸にしてしまう。
(2)怒りーーこれは、不満・不快を感じている状態。イライラしている、機嫌が悪い、ストレスを感じているときは、これは怒りの状態だと理解するようにする。
もともと、求める心に始まる人間の人生には怒りが潜在的につきまとっているもの。よくわからないけど、どこかに不満を感じている人はかなり多いはず。
でも、そうした毎日は、やはり幸せとはいえない。だから「わたしは怒りを感じている。でもこの怒りは求める心が作り出している、あまり根拠のない怒りである」と正しく理解して、心を静めるように心がける。そうやって、怒りを洗い流していけば、心はすっきりと軽くなっていく。
(3)妄想ーーこれは、想像したり、考えたり、思い出したりと、頭のなかでぼんやりと何かを考えている状態。「あれこれと、つい余計なことを考えてしまう」「落ち着いて物事に取り組めない」 という悩みの理由は妄想にある。
妄想をリセットする基本は「今、妄想している」と客観的に言葉で確認すること。これは先ほど記した「ラベリング」。実験してみると、これが結構難しい。妄想は無意識のうちにハマってしまっているのだから。妄想していたことに後で気づきます。
妄想を抜ける秘技は、「妄想している状態」と「妄想以外の状態」とを区別すること。
たとえば今、目を閉じてみる。目の前の暗がりに、なにかを思い浮かべる今朝食べたもの、テレビでみた映像など、なんでも想像してみる。
次に、目をパッチリと開いて、前をみる。部屋の中や外の景色をよくみつめる。そして「ああ。これが見えている状態(網膜が光を感知している状態、視覚)なのだ」と意識します。
「さっき見ていたものは、妄想である」「今見ているのは、視覚(光)である」とはっきり意識する。
そして。妄想とは全く別種の、カラダノ感覚に意識を向ける。呼吸しているときの「鼻先を空気が出入りする感覚」「お腹が膨らんでいる・縮んでいる感覚」を意識する。
こうして妄想と感覚の違いを意識しながら、感覚のほうに意識を集中させる練習を積むと、妄想から抜けるのがうまくなる。 

判断はわかった気になる気持ちよさと、自分は正しいと思える(承認欲を満たせる)快楽。
「自分は偉い」「正しい」「優れている」と肯定しすぎることを「慢」と呼ぶ。結局、不満やうぬぼれゆえの失敗を招いて損をする。劣等感や自信がないも慢。正しいと判断しない理解が必要。事実であり有益なことが大事。

「つい判断してしまう」からの卒業

1.「あ、判断した」という気付きの言葉
「今日はついてないな」「失敗したかも」「あの人苦手、嫌い」「自分はダメな人間」と思いがよぎったときは「あ、判断したな」と気づくこと。

2.「自分は自分」
噂話なんて「判断」のオンパレード。他人はあれこれと判断するかもしれないが、自分はこれ以上苦しみたくないから、判断を手放そうと腹を決める。

3.いっそのこと「素直になる」
素直になることが一番楽。「方向性を見よう」ということ。自分は正しいと思い続けたいのか、正しさにこだわらない素直な自分を目指したいのかを選択する。バカにされるどころか敬意をもたれる。


 「自由な心を取り戻す」エクササイズ
1.一歩、一歩と外を歩く
散歩。一時間でも二時間でも歩けるところまで歩く。
このとき、肉体がキャッチする「感覚」に意識を向ける(感じ取る)ようにしてみる。目耳鼻口肌、その一つに、これまで以上に意識を向ける。

2.広い世界を見渡す
「自分を否定するという判断」という一点だけを見続けているということはある。その判断はどこから来るのかと言えば、親だったり友人の一言だったり、世の中に流れている情報や価値観だったり。あるいは自分自身の小さな「思い込み」「勘違い」だったり。
外の世界を見渡せば、色々な人が生きている。自分を否定してくるような人は多くない。世の中にはたくさんの、心優しい人、良心的な人、親切なひとがいるもの。人を否定するという発想すらなく、毎日を一生懸命生きている人は大勢いる。

3.「わたしはわたしを肯定する」
今自分を否定してしまう判断をどう止めるかという問題。「どうせ」「しょせん」「自分なんて」という言葉がでかかったら「わたしはわたしを肯定する」と強く念じる。

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