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Webクリエーターになるための助走期間になった90年代(1990年〜1999年の歩み)

こんにちは。
心に寄り添うWebクリエイター、NEPPIE(ねぴ)こと関美奈子です。

プロフィールを作成する上で、今までの自分を振り返るためにマガジン「NEPPIE’s History〜この道を歩いて行こう〜」を作りました。

第1回は、短大を卒業して社会に出てからの約8年間(1991年〜2000年頃)を振り返ります。

今の仕事とはかけ離れているようで、今の仕事をやるきっかけが生まれる出来事がいくつもあったのを書いていて思いました。

1990年代を振り返り

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2021年1月、カラフルスペース放送局の参加者によるグラレコレポート

2021年1月にゲストで話した「カラフルスペース放送局」。
交流タイムで参加者の一人がグラレコで書いてくれたのを見直してみたら、90年代の出来事が記載されているのが興味深いです。

幼稚園の先生になってみたけど(1991年〜1992年)

1991年に短大を卒業した後、まずは短大で学んで資格を取った「幼稚園教諭」の仕事を始めました。

いくつか応募して決まったのは、埼玉県鳩ヶ谷市(現川口市鳩ヶ谷)にある幼稚園でした。

Prashant SharmaによるPixabayからの画像

当時は鳩ヶ谷に地下鉄(埼玉高速鉄道)が開通してないので、赤羽からのバス移動が時間掛かるのが大変で、しかも出勤時間が朝の8時!
家を出発したのは7時前というのが大変だったのを思い出します。

通勤もきつかったのですが、それ以上にきつかったのは卒業後いきなり担任を任されたことでした。

2年間の学びだけでは足りず、実践経験が少ない状態(卒業前の2ヶ月は研修で幼稚園に通ってましたが)でしたが、仕事を始めることになって園長から任命されたのは、「年長組の担任を一人で行う」ことでした。

最初は補助として先輩教諭のもとで働き、現場で学び実践しながら身につけていきたいと思っていたのですが、先輩教諭が揃って退職するという事態になってしまい、入れ替わりで入った新人(私も含む)がいきなり担任を一人でこなすということになってしまったのでした。

やってみると大変で、子どもたちをまとめるのに時間がかかったり、子供同士でケンカになった時になだめるのが大変だったり、お絵かきや工作などの作業もまとめるのが大変だったのを思い出します。

それでも子どもたちとの関わりは楽しかったし、笑顔で「おはようございます」と話してくれるのを見て癒やされてました。

保護者との関わりもいろいろとありましたが(怒られたことも)、駆け出しの私を気遣ってくれる人も多く、何度も助けられました。

しかしもうすぐ1年経とうとした3月、園長から「このまま続けるのは厳しいのでは」と退職勧告させられてしまい、年長の子どもたちの卒園と合わせて、私も退職することになったのでした。
(通勤に時間がかかりすぎるのも理由の一つですが)

大変だった事が多かったけど、子どもたちと出会ったことは財産になっています。

あの時受け持った子どもたちは今は30代後半。
今頃どうしてるかなぁ。

パソコンとデバイスに出会ったOL時代(1992年〜1995年)

幼稚園教諭を退職後、数ヶ月お休みして、都内の会社でOL(事務職)を7年位やりました。

仕事はいわゆる事務作業でしたが、パソコンを使って請求書のデータを打ち込んだり、DOS-Vの黒い画面で一太郎(ワープロ)やLotus(表計算)などのソフトを使うのが楽しかったのを思い出します。

営業事務をしていた時は、請求書を持参して得意先の会社に提出するなどお使い的な役割も行いましたが、普段会社にいるだけだったので、得意先へのおつかいがちょっとした気分転換になってました。

また、建設現場(空調のダクトを作り設置する会社でした)で働いている人たちに書類などを届けるのもありましたが、後に「恵比寿ガーデンプレイス」や「みなとみらい地区」などに生まれ変わる過程の現場に足を運べたのも今思えば貴重だったなぁと思います。

退職する2年位前、総務部に異動となりました。
現場に行くなどのおつかいは出来なくなりましたが、会社内で社員が動けるように進めている過程を見ることが出来たのも経験になりました。

パソコンを買って初めてのホームページを完成!(1995年〜1998年)

会社内にWindows95が導入されてEXCELやWordを使う作業をしたのをきっかけに、自分もパソコンが欲しくなったのもこの頃でした。

パソコンを買う前にワープロ「書院」を買ったのですが、そのワープロは写真もスキャン出来たりするので、佐野元春さんのことを中心に書いたミニコミ誌を作ったりしてました。

(当時の記事が旧ホームページにありました。画像が粗いですがミニコミの表紙も見られます。興味ある方はどうぞ)

1996年頃、ザウルスというツールを使ってパソコン通信を始めるようになり、それがきっかけでネットワークを通しての出会いが生まれました。

自分のパソコンを買ったのは1996年の暮れ。
Macが欲しかったけど当時かなり高かったので断念し、Windows95が浸透して価格がリーズナブルになってきた富士通のデスクトップPCを買ったのでした。

パソコンを買って以来、WordやEXCELを使ったり、インターネットでいろんなホームページを見たりしてました。
そのうち、自分も作りたくなって、ホームページ制作ソフトで個人のウェブサイトを作ったのが1997年3月です。


旧ホームページのトップ。2004年元旦が最終更新になりました
ワープロや表計算などのソフトをいじったり、ゲームして楽しんだりして、パソコンと親しみ、そのうちニフティサーブなどのパソコン通信はもちろん、インターネットやE-Mailを楽しむようになりました。そのうち眺めるだけでは飽きたらず、自分でもホームページを作ってみたくなってきたのでした。97年の秋から準備を重ねて、1998年3月13日(佐野元春さんの誕生日)にホームページを発信しはじめたのでした。
(中略)
いわゆるプロバイダーの名前が入るURLではなく、オリジナルな名称=独自ドメインにしたいという欲望も出てきました。そして(1998年)7月末、自分のハンドル名を使った「neppie.com」というドメイン名をゲットし、サーバも引っ越して現在に至ってます。
Party? Party!@Paper Edistion(旧サイトより)

ネットワークと会社との狭間での悩み、そして決断の時へ(1999年)

Foundry CoによるPixabayからの画像

パソコンやザウルスを使ってネットワークの世界が開け、コミュニケーションの幅も広がりました。
そして、個人でホームページを作って発信するようになったことで、「表現する」事の楽しさを知るようになりました。

その一方、一つの会社に勤め続けて6年位経った頃から、退職する人たちが何人も出てきたり、工場で勤務していた社員が系列会社へと異動となり人員が減ってしまってました。
社内で話が合う人も退職してしまったこともいて、相談できる人がいなくなったのも悩みになっていきました。

このまま会社に勤めることが自分にとっていいことだろうか…。

そんな事を考えていた1999年暮れ。
翌年「ミレニアム」を迎えようとしていた時、一つの決断を下すことにしたのでした…。

1990年代の1枚

1994年9月15日、「LAND HO!」ライブ前、「赤い靴」にて

最後に1990年代に撮った写真から1枚。

1994年9月15日、佐野元春 with The Heartlandのラストライブ「LAND HO!」が横浜スタジアムで開催された日でした。

ライブ前に訪れたのは「赤い靴」があった場所。
元春のデビューアルバムのジャケット撮影場所であり、元春、ファンにとって思い入れのある場所です。

この日は多くのファンが訪れていて、赤い靴の前で写真を撮っていました。

当時のライブレポが旧サイトに載ってますので、リンクしておきます。

ライブDVD、高く販売されていますが、リンクしておきます。

1990年代は「Webクリエーター」になるための助走期間

1990年代の私を振り返ってみました。
社会人になって最初は幼稚園の先生、その後はOLをしていました。

しかし90年代はパソコンが普及し、インターネットが広がり、手紙からEメール、パソコン通信でネットワークでの交流や活動が広がって、新しい世界が広がって来ているような気がしてきました。

ホームページを開設して、ドメインを取ったことで「自分自身」の場所を作ったことも大きいです。

ネットワークを通して世界が広がった事が、自分自身のこれからを考えるようになり、2000年に会社を退職し、新しい仕事へ踏み出すきっかけになったことは間違いありません。

1990年代は今の仕事「Webクリエイター」になるための助走期間だったんだなぁと思いました。

次回予告

次回は「ミレニアム到来!2000年、新しい学びと新しい仕事へ」として、2000年以降、今の仕事を始めるようになった頃からの話を書きたいと思います。

お楽しみに!

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