雑用力と雑用負荷感受性
子どもが文字通り主役の、すばらしい1日が終わった。
こんなご時世で病気もなく、ケガもなく、たくさんの協力と祝福を受けて感謝しきれない想いだ。
そして、そんな想いを胸に抱きながら、今日のうちにその名残と言えば美しい、ひらたく言えば大量の雑用を片付けて今、やっとお尻に体をあずけて、イスでほっとしているところ。
ああ、望みを実現するとは、思い通りの1日を送るとは、やりたいことをやり、後悔のないように全力で生きるということは、
大量の雑用と共に生きるということなんだなあと、下がってくる瞼と格闘しながら、ブラウザに向かっている。
世間には、「やりたいことをやろう」というメッセージは溢れていて、事実重要なんだけど、それを実現し続けられることを具体的にイメージすると、この雑用を片づける力の存在はは無視できないように感じていて、
今、なんとか逃げずにやり遂げることができるようになっているけど、どうすればそれができるのかってなると、「そういうもんだと割り切ってがんばる」というやぼったい精神論しか言えない自分がいて、
この逃れ難い雑用をしんどいと感じる負荷の感受性を下げて、雑用をやりきる力を育てる地味で高揚感をまったくもたらさない必須能力をひもといてくれる理論が提唱される日を、待ちながら今日を終えたい。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。