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順調に年を取るよろこび

久しぶりに日記を再開してみようと思う。
毎日更新として自分に圧をかけることをやめてから、だいたい2ヶ月。
「なんかやってみようって気になる」まで、自己否定せずに自分を見守れるようになったのは、中年になって時間の流れが早くなったのと、みんな一緒が正解と、生き方を強制されない時代になったこともあるように思う。

年を重ねるにつれ、地味であれ何かができるようになった理由を自分に求めなくなったのも感じる。

年齢や時代の流れのように、自分よりももっと大きくて普遍的なものがあるのに、自分ひとりの意思決定でなんでもコントロールできると思っているなんて、どこかズレている感じがするのだ。

自己否定は、自分の能力が人に比べて高いとか低いとかいう問題だったんじゃなくて、自分でなんでもできると無邪気にどこかで信じている若々しさの現れ方のひとつに過ぎないのかもしれない。

なんて導入でもう終わっていいかなの長さになったけど、今日書こうと思ったのは、「なぜか縁がないタイプ」っているよねって思い出したのがきっかけだ。

たまにfacebookとかでこういう人が苦手だとか、こういう人にモヤモヤするとか、マイルドながら相性が悪い相手とのエピソードを見ることがある。

「マウントとってくる人」「価値観を押し付けてくる人」「嘘をつく人」「騙す人」「裏切る人」「自分を手足のように使う人」などなど。

そういう投稿を見ると、そういえばもう数十年、この手の方とは縁がないなあと思い出す。「騙す人」「裏切る人」とは特に縁がなくて、騙されたのは目を瞑ってする手遊びの途中で校庭の真ん中に放置されたのが最後、唯一の裏切られた思い出は、小学生のときに午後遊ぼうと約束したので貴重なヨーカドーでの外食を断って1人で家に帰ったのに、ピンポンしたらいなかったときだ。

あのときは、家に帰って無茶苦茶に泣いたけど、今思えば何てたわいのない裏切りだったことか。今思えば親の事情で午後の予定なんていくらでも変わるのだから、そんなのは裏切りに入らないと思う。

「ご先祖さまに感謝しなさい」

ご年配の方が、よく口にするこの言葉は、こういうときにあるんだろう。
そしてそう言葉にするのは、きっとご年配の方々も、世の中にたくさんの心を痛める出来事があるなかで、何をしたわけでもないのに自分が無事で、痛ましい出来事に見舞われた人もまた何をしたわけでもないのを目の当たりにしてきたからなのだろう。

ちょっと流行りの価値観にくわしい人なら、「引き寄せの法則」とかチラッと頭に浮かぶかもしれない。わたしも自分と縁ある人について、それがあるとしたら無関係だとは思わない。

前世の因果もあるかもしれない。ホロスコープが示す持って生まれた運命やら、気づかないだけとか、考えうるファクターは色々他にもあるだろう。

でも、たとえそれらが全部影響していたとしても、わたしは「ご先祖さまのおかげ」説を採用したい。

なんだろうね。ここで冒頭に戻るんだけど、自分の力じゃないことにした方が、しっくりくるし、心地いいんだよね。

縁のはしっこは見えない。それが正しいとか、証拠があるかとか確認しようがない。わかっているのは、その端を握っているのは、今はいない過去の誰かであるということだけだ。だったら、とにかく誰と言わずご先祖さまに感謝したい。

というわけで、今日も順調に、年を重ねていることを感じて、しみじみ満足しています。




自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。