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東洋的なやり方

いろいろ学んでいると、大抵の「学問」と呼ばれるものは、西洋から輸入されたものなので、一神教的な世界のあり方の上に乗っかっているものなんだということを、ときどき思い出さないとなあと感じることがある。

たとえば、人が成熟するプロセスにしろ、人が心を癒すプロセスにしろ、いわゆる「科学的」な方法論では、言語化して認識し、「客体(対象)化」し、「統合する」という流れを辿る。

つまり、無意識にあるものを引っ張り出して、「自分ではないもの」として「コントロール」したうえで、「ひとつになる」ことを意志によって行おうとする。

一見あたりまえのことだけど、東洋的なレンズでこの様子を眺めると、無意識という巨大な角砂糖を掘って、穴の中の砂糖を自分達に見える表面にくっつけて喜んでいる砂遊び的状況にも見えてしまう。

東洋的なやり方は、無意識を無意識のままにしておく。ライフイベントを通して現れてきた現象を「対象」として作務的に取り組み、あらたな自動思考を獲得して、無意識自体の質を高めていく。

例を挙げるなら、親元を離れることで、これまでの自分を対象化して親のありがたさに気付いたり、愛する人を持つことで、愛にも自分の欲望と相手の幸せを望む気持ちがあることに気づく、といったようなプロセスがあるだろうか。

なんか絶対5分すぎたので、このへんにするけど、要は資本主義(経済)的に成功したり、勉強にのめり込むと、西洋的プロセス自体をワンオブゼム的に客体化しにくくなるのは、ちょっと気をつけないとなあっていうのを思い出した話。

梅干し1個できれいにご飯いっぱい食べられた朝ごはんバンザイ。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。