コートの隅っこでひたすらドリブルをする季節
今日録音したのは、子どもの頃、かの有名な(?)ブリタニカの英語教材を与えられたものの、受験期まで英語が苦手科目だったわたしが、
自分も子どもの英語教材を買い、それで自分の方が学び直したことで、10年の時を経た今、英語で仕事をして、英語「で」勉強するようになった話だ。
親が教育において、与えられるのは何なのかという話でもあるし、親として期待していい「収穫」はどこまでかという話でもある。
それは、わたしが子育てに軸足を置いたことで得た、最大の収穫のひとつ。
だからすごく大切なネタなんだけど、情報として受け取る側に価値がある形にまとめるのって、文字にしろ語りにしろ難しいなあということを痛感した。
声には文字より感情が乗る。
これ、すごいんですよ!めっちゃよかった!
と、熱を伝えることもできるし、逆に淡々と語ることで、真実味を増すこともある。
自分は、この声で演出するというスキルがまだなく、独り言のような語りになっている。
正直、毎日録音して投稿するのが精一杯で、毎度どこに「改善」の焦点を当てればいいのかがわからない。
明日明後日は告知通り、家庭の事情で投稿を休むけど、わからないけどとにかくやるシーズンなのかもしれない。
そういえば、5月6月って、部活スタートした中高の1年生もそんな感じだよね。
やれって言われたからやる。
それがなににつながるかわからないし、何をどう工夫しようなんて余裕もない。
その余裕と疑問の答えがうっすら見えるところまでは、ただ続けることだけしかできない。
自分で考えるとか、意見を言うとか、前提を疑うとか、そういうものが重視される時代ではあるけれど、それは時代そのものが求められるフェーズにあるという話で、
個人においては、そのような態度が機能しないフェーズにあることは、いくらでもある。
いいから、やる。まずはそれから。
時代に流されず、評価されないことでさらにつまらなさを増している、つまらない繰り返しをする。
ゴリに強制されるまま、コートの隅でひたすらドリブルする花道。
不服な顔をしながらも、やる。やるからこそ物語が次に進む。
それって大事だよね、と同じシーズンにいる人のエールになればと、ここに記す。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。