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砂の記憶 - 短編小説

砂嵐が過ぎ去った後の静寂が、アミルの耳を圧迫した。彼は目を開け、周囲を見渡した。果てしなく広がる黄金色の砂丘の間に、一筋の道らしきものが見える。しかし、それが本物の道なのか、それとも風が作り出した幻なのか、彼には判断できなかった。

アミルは立ち上がろうとしたが、激しいめまいに襲われ、再び砂の上に倒れ込んだ。彼の指が砂の中で何かに触れる。引き抜いてみると、それは小さな銀のペンダントだった。中央には砂時計の形をした模様が刻まれている。

「これは...俺のものなのか?」

自問しても、答えは返ってこない。アミルには、自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、何一つ思い出せなかった。唯一確かなのは、喉の渇きと、全身を覆う疲労感だけだった。

彼は再び立ち上がり、よろめきながら歩き始めた。太陽が西に傾き始め、砂丘に長い影を落とし始めたころ、遠くに小さな建物の影が見えた。

その建物―朽ちかけた木造の小屋に近づくと、年老いた男性が外に出てきた。白髪まじりの髭を蓄え、深いしわの刻まれた顔をしている。その姿を見た瞬間、アミルの頭に激しい痛みが走った。

「お前は...」老人が口を開いた。「まさか、アミルか?」

その名前を聞いた瞬間、アミルの中で何かが揺れ動いた。しかし、具体的な記憶は浮かんでこない。

「私は...アミルなのでしょうか?」アミルは戸惑いながら尋ねた。「申し訳ありませんが、私には何も思い出せないのです」

老人の目に悲しみの色が浮かんだ。「ああ、やはりそうか...」彼は深いため息をついた。「私はカリムだ。お前のことをよく知っている。さあ、中に入りなさい。話そう」

小屋の中は、外見から想像するよりも広く、意外に涼しかった。壁には様々な古い写真が飾られており、その多くが砂漠の風景や人々の姿を捉えていた。カリムはアミルにお茶を差し出し、椅子に座るよう促した。

「お前は、この砂漠の辺境にあるマラル村の出身だ」カリムは静かに語り始めた。「5年前、大干ばつが村を襲った。多くの人が亡くなり、村は滅んだ」

カリムの言葉に、アミルの胸に鈍い痛みが走る。しかし、具体的な記憶は浮かんでこない。

「そして、お前は大切な人を失った」カリムは続けた。「その悲しみに耐えられず、お前は『忘却の泉』を求めて旅立った」

「忘却の泉?」アミルは首をかしげた。

カリムは頷いた。「砂漠の奥地にある伝説の泉だ。そこで全てを忘れることを選んだのだろう」

アミルは自分の首飾りを見つめた。「この首飾りは...?」

「それは、お前の妹ライラが作ったものだ」カリムの声が低くなる。「彼女は、干ばつの最中に水を探しに行って...」

その瞬間、アミルの頭に激しい痛みが走った。目の前に、少女の笑顔が浮かぶ。しかし、すぐに消えてしまう。

「無理に思い出そうとするな」カリムが諭すように言った。「記憶は、時が来れば自然と戻ってくる。今は休みなさい」

その夜、アミルは落ち着かない眠りについた。夢の中で、彼は砂漠を歩いていた。遠くで誰かが彼の名を呼んでいる。振り返ると、そこにはライラらしき少女の姿があった。彼女は笑顔で手を振っている。アミルは彼女に向かって走り出す。しかし、どれだけ走っても距離が縮まらない。

突然、風景が変わる。干からびた大地。苦しむ村人たち。水を求めて歩き出すライラ。そして、彼女の帰りを待ち続ける自分。

「ライラ!」

アミルは自分の叫び声で目を覚ました。冷や汗で体が濡れている。窓の外はまだ暗く、遠くで砂漠の風が唸っていた。

朝、カリムはアミルに水と食料を与えた。「お前の旅はまだ終わっていない」カリムは言った。「自分の過去と向き合うために、砂漠を歩き続けなさい。しかし、気をつけろ。砂漠は記憶を呼び覚ます力を持っているが、同時に人を惑わせもする」

アミルは頷いた。何かが彼を呼んでいる。それが何なのか分からないが、答えを見つけなければならないという強い思いに駆られていた。

再び砂漠に足を踏み入れたアミルは、日々刻々と変化する砂丘の風景に身を任せた。時に厳しい砂嵐に見舞われ、時に蜃気楼に惑わされながらも、彼は歩み続けた。

歩いている間、断片的な記憶が彼の心をよぎる。子供の頃の笑い声。村の祭りの賑わい。ライラと一緒に星を見上げた夜。しかし、それらの記憶は砂のように彼の指の間からすり抜けていった。

3日目の夕暮れ時、アミルは大きなオアシスにたどり着いた。豊かな緑と水に囲まれたその場所で、彼は一人の老婆と出会う。彼女の目は白く濁っていたが、アミルの方をじっと見つめていた。

「お前の目に宿る迷いが見える」老婆は言った。「忘却の泉で記憶を捨てたのは、お前自身の選択だ。しかし、心の奥底では全てを覚えている。お前を苦しめているのは、記憶の不在ではない。それと向き合う勇気の欠如だ」

老婆の言葉に、アミルの中で何かが崩れ始めた。頭に激しい痛みが走る。目の前に、様々な光景が走馬灯のように駆け巡る。

干ばつに苦しむ村。水を求めて遠出したライラ。彼女を止められなかった自分。そして、帰らぬ人となった妹。責任を感じ、絶望のあまり、全てを忘れることを選んだ自分。

記憶が一気に押し寄せ、アミルは砂の上にうずくまった。涙が止めどなく溢れ出す。

「ライラ...」アミルは妹の名を呟いた。「俺は...逃げたんだ。お前を一人にして、自分だけ楽になろうとした」

夜が更けるまで、アミルは動かなかった。星空が砂漠を優しく包み込む頃、彼はようやく顔を上げた。

首から下がるペンダントを手に取り、その冷たい感触を確かめる。ライラが最後に彼にくれたものだった。「水を見つけたら、きっと戻ってくるから」そう言って彼女は笑っていた。

アミルは立ち上がり、オアシスの水面に映る自分の姿を見つめた。そこには、悲しみと後悔に満ちた、しかし同時に何かを決意した表情の男がいた。

「もう逃げない」アミルは夜空に誓った。「ライラ、俺はお前との思い出を、俺たちの村の記憶を、これからも生き続けさせる。そして、お前が果たせなかった使命を、俺が引き継ぐ」

朝日が地平線を染め始めたとき、アミルは歩き出した。目指すのは、かつての村があった場所。そこで新たな井戸を掘り、再び人々が集まる場所を作る。それが、ライラへの、そして失われた村への贖罪となるのだと、彼は信じていた。

砂漠の風が優しく頬を撫でる。それは新たな旅立ちを祝福するようでもあり、過去の重みを思い出させるようでもあった。アミルの足跡は、やがて砂に埋もれていくだろう。しかし、その心に刻まれた記憶と決意は、砂漠の風にも消し去ることはできない。

彼の旅は、まだ始まったばかりだった。

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