諸行無常

ある日11歳の娘が「いつまでこれを新型と呼ぶの?」と聞いた

もうこれで丸2年以上
僕らは「新型」ウイルスと呼ばれるものに翻弄されながら暮らしている

11歳の子供にしたら人生の5分の1近くをこのウイルスと共に生きているという事になる。
彼女たちにとってはもう何も新しくもなんとも無くて
この2年で、Covid-19を除いて新しく流行ったもの達はとっくに定番化しているか廃れているかのどちらかだ

あれだけ行列を作ったタピオカ店も、今やそこらの美味しいたこ焼き屋と変わらないくらいに定番となった

当たり前と思っていたものが貴重な事だったと気づき
新しい事はいつの間にか当たり前になる


サポートをしている部活動の現場でも、「特別な状況だから仕方ない」を合言葉のように学生達に様々な我慢を強いている

大会は当然のように中止となり、開催されても無観客で友人に見にきてもらう事もできない。長期的計画的なんてものはもはや絵に描いた餅で、日頃の練習は時間が制限され、屋内でのトレーニングも極端に少なくなった。
練習終わりや試合後にチームメイトやクラスメイトと食事に行ったり、合宿で寝食を共にしたり、休みの日に出かけたりと言った、いわゆるチームビルドすら「するな」と言わざるを得ない

もちろん誰にとっても時の流れは平等だけれど、38年生きてきた僕にとっての2年と、青春(少し陳腐すぎる言葉かもしれないけれど)のど真ん中の3年のうち2年ではあまりに重さが違いすぎる

下手をしたら高校生活の全てを「仕方ない」を言い訳に、感染症にかからないようにする事だけに神経を集中させて過ごす事になる。
現実的に試合前にチーム内で一人でも感染者が出れば不戦敗になり、下手をしたら練習を頑張るよりも感染症にいかにかからないかが勝敗を分ける事になりかねない。

スポーツをプレーする限りは常に怪我のリスクがつきまとっている。そのリスクを少しでも軽減するために少なくない時間を割いてトレーニングやエクササイズに励む

それでも怪我の可能性をゼロにすることはできない

だからこそ万が一怪我が発生してしまった時にはどうするか、予め決めておく。脳振盪になったら何週間は運動はしてはいけない。AEDやタンカはどこに置いてあるか、救急車の進入経路はどうするか、どこの病院の先生なら休日でも対応してくれるか。予め確認しておく。
怪我が起きた時に発生するマイナス要素を少しでも軽減するためだ。

同列に扱う事はできないかもしれないが
感染症でも同じ事だと思う。どう考えても感染者をゼロにする事はできそうもない。
であるなら、もしも発生した時に少しでも問題が大きくならないように予め対応を決めておくしかない

ドミノ倒しのように、先頭の一つを倒して全て倒れてしまわないようにストッパーを置く。
どれだけ倒すなと怒鳴っても、どれだけ倒したくないと願っても、倒れる時は倒れるのだから。

わかっているはずなのに
未だ僕たち大人は、かからないように気をつけようと言うばかりで
いざ罹患してしまった時にはどうするか何も決められていない
何も決めていない代わりに「柔軟に対応する」をずっと都合よく使っている

(決めてさえおけば、仮に非情な措置だとしても受け入れる事も幾分か簡単になるのに)

スポーツの本質は勝つことではない
スポーツは社会生活や文化の一部でしかないのだ

先に書いたような、青春の1ページの、その時は無駄な事に思えるような何気ない社会生活の中にこそ健全な経験があり、自己の研鑽があり、スポーツの上達があり、その先に勝負という結果がある
ただ試合に負けない為に、感染者を出さないように暮らす事に一体なんの意味があるのだろう

もちろん感染し苦しむ人がいる限り、出来る限り感染者数を減らす努力をする事は必要だとは思う

しかしもうこれは当たり前にそこにあるものになった

いつまでも「新しく」て「特別なもの」に「柔軟に対応」している場合ではない

そこにある避けられない問題から目を逸らさず、どう折り合いをつけて子供達の成長をサポートするのかを考える必要がある

心身ともに大きく成長する時期に健全な経験をさせてあげることこそが大人の大切な役割だと心から思う



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