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27年。

27年前のあの日、突然「被災者」になった。家も家族も無事だったが、生まれた時から暮らしていた大好きな街が、たった1分の揺れでめちゃくちゃになった。

昼夜問わず鳴り響く救急車のサイレン、どこからともなく漂ってくる焦げた匂い。町内でガス管が破損し、処置のためガスが止められた。復旧までの2週間、ガスが使えなかった。

本籍地の上に乗っていた家は倒壊し、親戚が3人生き埋めに。その裏に住んでいた遠戚のおばさんは、家の梁が頭の真上に落ちて落命した。

職場のあるビルは半壊判定で立入不可。そもそも、職場にいく電車が不通。バイト先のデザイン事務所が入居していた細長いビルは、隣のビルにもたれかかっていた。

生まれ故郷がこんなことになったのに、何も出来なかった。知っていれば防げたかもしれないこと、傷つかずに済むことがたくさんあった。

この悲しい出来事で学んだことは少なからずあった。あんな悲しい思いは誰にもしてほしくない、と思った。

しかし、その思いは、空回りする。

その後暮らした街で出会った人達は、遠い西の街で起きた災害なんて自分には関係ないと言わんばかりだった。

そのひとりで、同年代の女性に言われた。

「ねぇ、”かわいそうだったねー、大変だったねー”って慰められたいの?(笑)」

唇をゆがめて、半笑いでそういった彼女の顔は、どす黒い記憶として残っている。

思いの熱が違いすぎる。

それきり、語るのをやめた。同じ思いをしないと分からない。言うだけ無駄だと。

それからだいぶ経って、縁あって消防団に誘われた。早々に入団申込書を書いた。

何ができるか分からないけれど、無力感に押しつぶされていた日々から、ようやく開放される気がした。

しかし件の彼女は相変わらずで、「なにが目的? どこ目指してんの? いい男でもいるのかーっ?」と言ってきた。

この女を基準に関東の人を一括りにするのは、他の方々に失礼だ。
遅まきながら、ようやく理解した。こういう輩とは、静かに距離を置くに限る。あほらしい。

幸か不幸か、東日本大震災の後から風向きが変わっていた。それまで「避難袋の食料を入れ替えた。私の防災対策、カンペキ!」って言っていた人達も、寝室に背の高い家具を置かないようにレイアウトを変えたり、家具に転倒防止対策を施したり。賃貸物件を探すとき、建築基準法が変わった1981年よりも後に建てられた家をリサーチしたり、地盤を気にして古い地図を見てみたりする知人が増えた。
…そういえば、かの人が家探ししてたとき、「築50年すぎてるけど、内装はリフォームしててスゴくキレイなのー!」とか言ってたなあ(´・ω・`)

さて27年目の今日は、いつもどおり静かに1日がすぎていった。

去年と違うのは、ひとつ。
これまで、なかなか故郷に戻る決心がつかないまま過ごしてきたが、この1年いろいろなことがあり、仕事のメドが付く5年後には再び神戸で暮らすことに決めた。

コロナ禍が収束したら、いま住む街で楽しい思い出をたくさん作ろう。私を受け入れてくれた消防団のメンバーや、職場のみんなや、街のみなさんに少しでも恩返しをしよう。5年なんて、きっとあっという間だ。

その間に27年前の経験を活かす場面がこなければいいけれど、もし来てしまったときは精一杯つとめよう。つとめられるように日々過ごそうとあらためて考えている。


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