あなたと歩んできた道を、また会えるように進んでいくのだ。(Mrs. GREEN APPLE / Soranji)


Mrs. GREEN APPLE 「Soranji」

ついに、Soranjiについて書いてみる。
いつも Mrs. GREEN APPLE の新しい楽曲を受け取る時は緊張している。ワクワクから来る胸騒ぎを上回ってしまうぐらい、自分の器できちんと受け止められるのだろうかという責任感に背筋が伸びてしまうのだ。2018 年の「ENSEMBLE TOUR」後の あらゆる誌面で大森さんが語っていた、「(楽曲の本質が)届いていない」という言葉の重みを、その感覚に苦しめられ衰弱していく彼の姿を見ていたから。この経験は私の音楽の聴き方を一変させたし、日頃の対人関係での他者との向き合い方さえも変えるぐらい大きなものだったんだよね。そんな大森さんが「これほど潜った曲は無いし、 これ以上のものはきっと僕には作れない。」「現時点の僕の最終地点。Soranji で僕の人生はひとつ幕を閉じたんだと思う。」とまで言う楽曲。食事も水も摂らず、部屋を真っ暗にし 5キロ痩せてしまうほどの極限状態で書き綴った曲。ふらっとプレイリストで流れてくれて ラッキー!なんて聴き方を絶対に出来なくて、本当に何度も何度も集中して聴き込んだ。


映画『ラーゲリより愛を込めて』、Soranjiの MV 、各メディアでのパフォーマンス、各種インタビュー記事、ワンマンライブでの披露。一通り見た上で現時点での、この楽曲に対する私の着地点を残しておきたいなと思う。結果論として正しい正しくないではなく、この楽曲からうまれた、たどり着いた何かがあるということを失いたくないという、もうほとんど私のエゴだね。共感で繋がりたいと思って書くわけではないし、私の思想を振りかざしたいわけでもないから、ただただ「Soranji」という楽曲とともに巡った日々を感じてもらえれば嬉しいです。


※以下、映画のネタバレを含みます

はじめて楽曲を聴いた時は「生きてほしい」という言葉の印象がとにかく強く光っていたから、映画のあらすじ的に(映画は公開前で、結末はまだ知らなかった)過酷な状況下でも前を向くこと、諦めず信じていれば報われる日はやってくるのだと、そんな希望を謳ってくれているのかなと感じながら聴いていたなあ。正直、そんな分かりやすくストレートな内容であるわけないか...?と戸惑いながらも、「生きる」と「信じる」の二つのキーワードにどうしたって引っ張られた。ハッと驚くような言葉の言い回しを繰り出す大森さんが、ストレート過ぎる言葉に装飾を付けないことを選んだ。ここに意味があるのだと、この奥にまだまだ気付かないといけない部分があるぞという、でも掴み切れないもどかしさがあったのを覚えている。

「Soranji」のキービジュアルが公開された時から、浮遊というキーワードは頭にあって。でもそこに深く潜り込めていなかったものたちが、MV が公開されて一気にドカドカと動き出した。もう全身を駆け巡るように、ドカドカと。天に向かって浮かび上がっていく姿が、どうしたって死を連想させていた。もしかして、もう死を迎えた人(死者)からのメッセージなのかもしれないなと思って、実際に映画を見ると遺言だったわけだけど、そうして作品化された今、映画そのものが死者からのメッセージとなっているわけだけど。もうこれに気付いたとき、何度も聴いて考えていたことたちが、ひっくり返ったように、今はじめてSoranjiを知りました みたいな気持ちになった。

冒頭「今、伝えたいんだよ 私はただ 私はまだ...」が「まだ伝えたいことがある・まだ伝えたいことを伝えられていないんだ」というような、もう死が見えている状況化で、死に向かいながら、生にどうにかしがみ付くような息遣いが感じられて胸が締め付けられる。 そこからサビの歌詞をなぞっていくと、もうそれは何としてでも生きている内にどうにか届かせないといけない「信じて」と「生きて」だったんだなあと。そこに飾り言葉は絶対に必要なくて、もっと言えば伝えたいことは、言葉じゃなく気持ちそのものだったのだと。だからむき出しの言葉で、言わなくちゃいけなかったんだね。


二番になって「鳥の群れは明日へと飛び立つが 私は今日も小さくなってます」「ゆらり揺れながら 産声が聞こえる 繰り返してる春」はすでに死を迎えてからの描写であると思う。言葉で書き起こすのを躊躇ってしまうけれど、「私は今日も小さくなってます」はシベリアの土の中で眠り、土に還っていった主人公・山本幡男の姿とリンクする。上記で書き綴った真っ直ぐなメッセージ部分と、抽象表現な情景描写のコントラストが美しすぎる。

「大事にして語り継いでくれましたか?」「未来でも変わらず届けられますように」という歌詞は、遺言を仲間に託した山本が眠りながら、家族に思いを馳せる様子が温かく浮かびあがる。もがき、力を振り絞るような一番に対して、どこか安らかな二番が優しくも苦しい。

「暗闇が続こうと 貴方を探していたい だから生きて、 生きてて欲しい」 一番では「生きて、生きて欲しい。」だったのが「生きて、生きてて欲しい」に変わっているのも、「明日へと花を咲かすから 繋いで欲しい。」の歌詞も、もう本人はここには居ないから、だから命ある者へ願い・次の命に繋ぐしかないのだなと思って、誌面のインタビュー で「Soranji は始まりと終わりの点がくっついたような、メビウスの輪のような曲」と言っていた言葉の意味を改めて理解しました。

生まれて、生きて、死んで、また生まれる。死んだらそこでお終いなんかじゃなくて、あなたの生きた足跡は後ろを振り返れば、いつだって辿っていけるように残り続けるし、それから先の未来は、あなたの代わりに道を続けていく人がいる。あなたの心の中で生き続けられるのなら、死は会えなくなっても失うものでなないね、と気付くのでした。

Mrs. GREEN APPLE は死生観が歌に色濃く出ているバンドだけど、ここまで前向きに尊いものとして死を歌ってくれるとは思わなかった。今生きる日々は誰しも死に向っているんだけど、それはきっと悲しいことではない。だから何気ない今日をただ愛して、誇っていて欲しい。Mrs. GREEN APPLEのみんなも生きて、どうか生きていてね。

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