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今と昔で「実力」の定義が少し変わってそうだなという話


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こんばんす。
今回は「実力」の定義について、ほんの少しだけ適当に考えてみたことを共有してみようかと。

### 昔と今の「実力」の定義

昔は、コンテンツのクオリティを高める能力(コンテンツ作成能力)を主に実力と言われることが多かった気が。
でも、今はそれだけじゃない気がする。
今は「入り口を広く作る能力」も実力の一部として見なされることが増えたような気がする。


例えば、昔のアーティストの方が独創性を求められたが、ビジネスセンスはあまり求められなかった。

アーティストは作品を作って、事務所などが売り込み面はカバーしてくれたから。
そういった仲介する業者の必要性が低くなってきていると思う。
(仲介の必要性が低くなったと言うよりかは、仲介が担っていたことも自分でできる人の方が現在の社会システムに適合してるって感じかな?)

「それってなんでなんやろ?」ってのを下に書いていきますよーと

### 忍耐力の低下とその影響

昔の人は、何かを楽しむためにたくさんの努力をしていたと思う。
例えば、エロ本を買って隠すとか、友達に会うために時間をかけて移動するとか。
そういう時代背景があったからこそ、"快楽を得る"ためには忍耐力が必要だったのかと。
なので自然に鍛えられる構造があるよねって。

また、流行りに乗っかるだけで満足できるとは限らず、自分にとって良いコンテンツがあまり誰も知っていない場合、
それを探す労力は今とは比べものにならなかったんじゃねぇかと。

でも今は、スマホがあれば簡単に快楽を得れて暇つぶしができるし、昔と比べると、かなり低労力ですぐに自分にとって良いコンテンツが、手に入る。

だから、現代人の忍耐力は昔と比べてかなり下がっているんじゃねぇかと。
これが、実力の定義を変える一因になってる気がする。
その理由を下に書いてくよー。


### 入り口を広くする力の重要性

今の時代、情報発信者はコンテンツの入り口を広く作る必要がある。
理由は、忍耐力の低い消費者は、自分でコンテンツを探求すると言う行為に労力を割くのが難しいため、
こちら側から、
「ここに面白いものあるよ〜。おいでー赤ちゃん」と言う具合に教えてあげる必要があるから。

昔はコンテンツの質を高めることに集中できたけど、今は「どうやって多くの人に見てもらうか」が重要視される。

例えば、カリスマ性や、他人の注目を引く発信力があると有利。
そのコンテンツが秘めている力と言うよりかは、
いかに"それっぽいもの"を装えるか。
そこが重要かと。
大衆にはその物事の中身にどんな魅力が詰まっているのかまで掘り下げる気力は残っていない。

それに、自分が好きなコンテンツを自慢するための消費行動(顕示的消費)も、入り口を広くする具体例だと思う。
なぜかと言うと、特に現代はSNSでいかに自分をアピールするか合戦だから、
「この曲聴いてる私エモいでしょ?」
「このおかしな服の良さ分かる俺ってイケてるくね?」
と言った具合に、自己アピールの手段としてのコンテンツ購入、コンテンツ消費が増えているのだと思う。
(これを人生浪費と呼びたいと思う)


### 結論

要するに、現代の実力の定義は、コンテンツ作成能力だけでなく、どれだけ多くの人にリーチできるか、その「入り口を広くする力」が求められるようになってきている。
これは、現代の消費者の行動や社会の変化に対応した結果。
なので、決して、人性浪費組の人を批判しないであげて。
悪いのは仕組みなんだから!!!🥺

この話が何かの参考になれば嬉しいです。
最後まで読んでくれてありがん!

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