真夜中のカプリチオーソ

 7畳半の暗闇で目を覚ました。枕元に転がっているであろうスマホを探し身をよじるとロフトタイプのパイプベッドがぎしぎしと音を立てた。既に深夜2時を回っている。窓が斜めにつけられたレオパレスでは、朝日や夕日は疎か一日中薄暗い。布団からはみ出し長い間冷やされていた肩から背筋に寒さが伝わり震える。エアコンのリモコンに手を伸ばそうとしたが、布団をかけ直しさらに深く布団に潜った。爪先に冷たいパイプベッドの柵が当たる。膝を曲げて体勢を横にすると自分の体重で真ん中が沈んだベッドがミシミシいった。  

 自己嫌悪。そんな言葉が適切だろうか。気を紛らわすために序奏とロンド・カプリチオーソの2分半バージョンを繰り返しで再生した。どこの大学に行ったとしても、そこで打ち込めること、心の許せる友達を作れば生きていける、大学生はそんなものだ。これが大きな誤算だった。

 高校の頃に見た演劇に憧れて入った演劇研究会はセリフと返事以外話さないまま辞めてしまった。本来の自分を出すことができなかったし、出したいとも思えなかった。私の最初で最後の舞台は高校の体育館のステージくらいの舞台で木の箱にペンキを塗った粗末な大道具を使った。観客席も緞帳もない。あるのは学食の上階の空きスペースと錆び付いて動かなくなったカーテン式の幕だけだった。かつて見た2階まである広いホールに、走ると足音が重たく響くステージ、緞帳が上がる瞬間心臓の芯を貫くこれから人生を揺るがす事象が起こるという予感。目指していたものがまやかしだったと気付いた時のショックは案外大きなものであった。

 今の大学生は飲み会がなくなって可哀想だという世間の声も、そんな世界線に出会わなかった我々には関係ない。触れたことの無い日常に憧れたりはしない。むしろ途中から飲み会が出来なくなった上級生の方が可哀想なのではないだろうか。

 トイレに行くために重い体を起こす。ここに来てから生理の出血が止まらなくなった。元々弱かった胃腸もさらに壊しやすくなっていた。ベッドの柱に紐をくくって首を吊るシーンを何度想像しただろうか。強い自殺衝動を何回か経験してそれでもしぶとく生きている。世間から見れば「死にたいと言う人に限って死なない」の典型例と取れるのかもしれない。死へのサインを見逃しているだけなのではとも思うが、サインを積極的に受け止めようとするのは新興宗教の勧誘くらいだから仕方がない。一度芽生えてしまった希死念慮とはおそらく一生の付き合いになるだろう。

 一生好きでいるだろうと思っていた相手とは、上記の様々な感情を相談したことをきっかけに仲違いし、一切の縁が切れた。死にたがりに人は寄り付かない。新しい友達もほとんどできなかった。結果として私には何もなくなった。

 もう一度布団に横になる。自分の中から大切なものがこぼれ落ちていくような1年だった。この先自分自身も社会の器からこぼれてしまうのだろう。希死念慮という苦しみを抱え、かと言って実行に移す勇気もないままただ息をする日々は果たして幸せに変わるのだろうか。くだらない。全く持ってくだらない。いつか見た演劇のセリフが蘇る。貧血で頭が重い。体がだるい。食べる気も起きない。苦しい。大人になるということは、誰も助けてくれなくなるということだ。これからは1人にならなければならない。
 死にたがりの私は今日も息をしたまま目をつぶった。

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