管理された不変

 いつもウォーキングの為に歩いている緑地公園がある。
 コロナウィルスで世間は騒いでいるものの感染者がまだ出ていない地元では、運動の為にこの公園に訪れる人々も少なくない。例えば部活が出来ない陸上部らしき学生たち、あるいは家にこもりきりでストレスがたまった子供を連れだしてお弁当を食べている親子、健康の為に散歩をしている老夫婦等々。とはいえ車のサーキットコースの様に設置された散歩コースを歩いてみるとマスクをしている人やすれ違いざまに大きく距離を取る人も多く、全く警戒していないという訳でもないらしい。

 いつも通りの散歩コースを歩いていると公園を抜けて田園に抜ける道があった。小学生の時に1度だけ通ったことがある。そこまで仲が良くなかったクラスメイトの家に遊びに行くのに通った道だ。たしかそのクラスメイトの家ではゾイドのジオラマがあって、バイオハザード3を初めて見せてもらったのを覚えている。

 少しだけ、今はその家がどうなっているのだろうかと気になった。
 私は小道を抜けて田園に向かう。真っ直ぐの道を通ると左側の畑には猫じゃらしのような植物が結構な長さまで育っていた。麦だろうか? 大麦か小麦かは分からないが。右側の水田には植えられたばかりの稲が点在して緑を彩っている。農機が通ったであろう湿った泥の跡が残る道路を真っ直ぐ進み分岐路を左に曲がる。右は相変わらず水田が広がり、左側には竹林が現れる。採取されたたけのこの残骸と墓地が覗く竹林によって日差しの遮られた道を真っ直ぐ歩く。後ろから走ってくる軽トラックに気付き狭い道の恥に寄る。運転席に座るおじいさんと助手席のおばあさんは物珍しそうな、或いは怪訝そうな顔で私を見ながら通り抜けていく。無理もない、ただ畑が広がるだけの場所に見知らぬ顔が歩いていたら注目もしたくなる。

 追い越していった軽トラックを目で追うと左折して家の敷地に入っていく。赤いトタンの屋根で出来た納屋と黒い瓦の家があった。過去の記憶が鮮明に思い出される。ああ、この家だ。私が遊びに行ったクラスメイトの家はここだ。
 疑問が解消されてしまえば興味はすっかり消え失せて、私は少しの満足感のみを胸に来た道を戻っている。それにしても驚くほどに何も変わっていなかった。記憶に残る限りの情景を脳内にかき集めても何一つ変わっていない。新しい家も建物も経っていない。変わらないものというのは存在するのだなぁと思いながら公園の入り口まで戻ると、標識があることに気付いた。

「この先、市街化調整区域」

 標識は私の後ろに広がる田園を指していた。
 ああ、なるほど。都道府県が自然保護の為に開発を規制する区域か。そう納得すると同時に落胆する。変わる変わらないの裁量さえお上と法律によっているという事実に辟易した。私が少しでも感動した変わらないものと言うのは人工的に管理されたいわゆる紛い物だったのだ。まあだからなんだという話ではあるが。
 人の手がほとんど入らない自然に自由や都市部の窮屈さからの解放を夢想したとしても、その自然自体が管理された窮屈であるものと理解した時にどこにも逃げ場がないという閉塞感が私を襲った。
 当初の目的であるウォーキングの事を思い出し足を踏み出す。しかし、その足はとても重く感じた。

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