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留学日記#72 24.3.10.
読む歓びがあるなら書く歓びもある。それは書きたいときも書きたくないときも書き続けて初めて見えてくる。東村アキコが美大受験を通して漫画家になるまでを描いたエッセイ漫画『かくかくしかじか』は、まさに見ることではなく描くことの歓びを綴ったものだった。しかしその過程には「先生」という、芸術人生における強烈な父がいた。ゆえに本作は描くこととマッチョイズムを重ね合わせるようにして締めくくられる。マゾヒストは違う。父を世界から締め出して、代わりの機能を自らの手で一から構築していく。日記作者が時間を掟とし固執するように。しかるに主体性は両者ともから欠落している。
マゾッホの小説において繰り返される次の主題は何を意味するか――「君は男hommeではない。私が男にしてあげようか?」 「男になる/一人前になるdevenir un homme」とは何を意味するのか? それが決して、父のように振る舞うことでも父に取って代わることでもないのは明らかだ。それは反対に、父の位置や似姿を消去して新しい人間l'homme nouveauを生むことである。責め苦はまさに父に対して、すなわち息子の中の父のイメージに対して差し向けられる。すでに述べたように、マゾヒストの幻想とは子供が叩かれるというより、父が叩かれることなのである。
日本語のオノマトペについて恋人と話していて、大和言葉の柔らかさを改めて認識した。オノマトペが好きだ。擬音語にしても擬態語にしても、漢語とひらがなとの応酬の中で、ここぞというときに差し込まれることで文はぐっと日本語のリズムを帯びる。僕は古語には明るくないけれど、オノマトペの言葉と現実を直接重ねるやり方こそ、たぶん「あはれ」の精神なんだよと教えてあげた。一番好きなオノマトペを聞かれたので「するする」と答えた。
洗濯物を出しに外に出たらにわかに雨が降っていた。久しぶりに雨の湿度を感じた。生き物の匂いがあった。洗い物を乾燥機に放り込んで、取りに戻ったらボタンを押し忘れていたのだけど、生乾きのまま今度こそ乾かし始めたら、もう一度取りに戻ったときにシーツがほかほかと熱を溜め込んでいた。
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