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留学日記#83 24.3.25.

 一様に広がる空間がある面積によって遮られる。そんなイメージがある。色の広がりが他の色に切り取られると言い換えてもよい。以前東アジアアソシエーションの上映会で観た『彼らが本気で編むときは、』では、いくつかのショットが海と砂浜、桜と草むら、空とベランダといったふうに二色に裁断されていた。どうしてか惹かれた。そのころから色が色に切り取られる画に敏感になっている。

 もしかしたらこの感覚は寮の部屋の窓に由来しているのかもしれない。白い壁と天井に囲まれた簡素な部屋は、奥の一面だけほとんど巨大な窓そのものになっている。建築科の友人が訪れたとき、寒い国だから採光のために窓は大きく設計されるのだと言っていた。たしかに窓は、第一に光を採り入れるためのものだ。たとえば『陰翳礼讃』の谷崎にとっては、窓は暗さを準備するためのものだった。窓から差し込む光は障子に濾過されて淡く薄暗くなってゆく。純粋な文学作品を思い出してみても、窓なんてありふれたモチーフはそこかしこに登場するわけだが、わかりやすいところで言えばヴィアンの『うたかたの日々』などもそうだろう。恋の幸せが破綻していくにつれて窓は文字通りふさぎ込み、光が内に届かなくなってしまう。けれど『うたかたの日々』においては、窓は醜い外を内から蔑むための車窓でもあった。窓は部屋と世界とを分断し媒介する。そして内から外へのまなざしを可能にしている。憧れと挫折の、マティスの窓である。あるいはロメールの『コレクションする女』の。

マティス『赤い部屋』

 光という徴を導いたり、あるいは視線が投げ込まれたり、窓とはまるで外部への予感がガラスに結晶しているかのようだ。比較的引きこもりがちだった留学生活を通して、僕はこれまでになく窓を眺めてきた。そこには山がある。僕はたぶん、山に憧れを投影している。ふと目を見やるたび、その面は水色に、鼠色に、濃紺に色彩を変えて移ろいを際立たせている。窓が時間を色にして切り出している。

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