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留学日記#84 24.3.26.

 久しぶりにフランス人のタンデムに会う。ここのところ帰国を意識するようになった。できることをできる範囲でしよう。二か月ぶりのタンデムは相変わらず愛嬌があった。チュクチュクチュク…という謎のオノマトペを何につけても口ずさむのが可笑しい。一時間話した。最初に話したときと比べてはるかに円滑に話せるようになっている。何せ最初はほとんど意志の疎通ができないくらいだった。朝から就活の落選の通知で落ち込んでいたが、二人でけらけら笑っているうちにいくらか気も晴れた。

キャンパス

 帰国を想うと異邦性についても考えたくなってくる。この僕の留学は異邦性がいたって希薄な気がする。部屋、インターネット、日本人との関わり。国際的な社交性を獲得することに興味が持てなかった。極端に相対主義的なところがあるせいか、そもそもヨーロッパに特有の価値観に感銘を受けたことがない。何かが目についたときにはすでにリベラルさや保守性のような政治性に還元されている。異邦と言っても、ただスタイルの違いを興味深く思うばかりで、そこに巻き込まれようとは思えなかった。ただしこれは僕の意識の俎上にあるヨーロッパ観。もっと大きな意味での異邦がある。それはたとえば街並みの驚きが日常へと溶けてゆく過程の中にある。視点を変えれば、失われた日常にこそ異邦性が見えてくるのかもしれない。鶏がらスープの素とか。意外と手に入れるのが難しい。懐かしい。

 懐かしさは寂しさに似ている。寂しさが何かの不在に気づき、その驚きが醒めてゆく過程なのだとしたら、懐かしむこととは不在をそうと知りながら認めずにいることだ。無いという事実を宙に吊って在ると想像すること。それでいて寂しさもまた、郷愁と驚きとの間でゆらゆらと揺れている。懐かしさが宙に吊られて、その縄に引っかかるようにして寂しさも宙吊りにされている。中学受験の滑車の問題みたい。

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