エンプティである事の美しさ、残酷さ

本誌集は「Ⅰ」、「Ⅱ」の二部構成から成る。それぞれについて記載させていただきたい。
Ⅰ 思い出世界は時に卑怯なくらいに美しい。本当は辛いことも憎むべき事もあったであろうに。そう、それはまるで花火の様だ。ぱっと散ったあとでも瞼の裏でいつまでもキラキラと輝き続ける花火。思い出世界には、そんないつまでも脳裏でキラキラと輝き続ける美しさがある。そしてそれは、当事者の思いが強ければ強いほど眩いばかりの光を放ち続けるのだ。
滝本政博さんは綴る。愛を。愛した女性を。愛した女性との時間を。「少女から大人に咲き初める季節/乳房は張り/吐息はほのかに匂う/甘い香り/あなたが一斉に咲き溢れる/あの町に この町に」(百花)。初々しささえ感じるほどに瑞々しい感性で。語りかけるような柔らかな言葉で。そして絶対的な愛情で。
思い出世界でキラキラと輝き続ける「あの人」の椅子は今も空いたままだ。きっとこの椅子を、この愛しさを美しさを寂しさを埋めることは二度とないだろう。「エンプティ」であるからこそ、思い出世界の「あの人」はキラキラと輝き続けるのだ。それは、いつしかの日に見た花火の様にいつまでも卑怯な程に。
Ⅱ Ⅰとは対象的な作品が並ぶ。現実は時に残酷で、その積み重ねこそが、私達の唯一の人生であるという事実。それに向かい合う作品群だ。
自らの人生を静かに振り返る滝本さんの向かいに置かれた「エンプティチェア」に腰掛けるのは誰なのであろう。それは、時に父であり、母であり、愛犬であり、アルコールであり、もしかすると燃え盛る火事の火なのかもしれない。多くの人が、ものが、出来事が通り過ぎ、そして今日も一人「夜になればパソコン」に向かうのであろう。(わたし・わたし)
「わたし・わたし/そこにいるのですか/ここにいる/確かに存在している/何者でもないわたしがいる/それならそれでよい/選択肢などないのだ」(わたし・わたし)
厳然たる事実が、残酷なまでにリアルな描写が、そして生きてきた足跡を静かに辿る視点が、作品たちを浮かび上がらせていく。何者でもないわたしこそが、選択肢のないわたしこそが、自分自身を生きてきた証であり、それこそが人生というべきものではないであろうか。
二部構成で語られる、一見相反するような視点も全て滝本さんのリアルな生きた「証」なのだ。改めて人生の意味を問うこの一冊に共感念を禁じ得ないのである。

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