引っ越し直前のエマニュエル婦人
桜新町の駅前を通りかかると、今でも胸が締め付けられる。
あの頃の、メソメソした自分がまだそこに置いてけぼりになっているようで、探してしまう。出来ることなら、もう1度この町に住みたい。1人暮らしをやり直したい。
銀行員という安定した仕事を捨て、夢だった脚本家という仕事に少しでも近づくため、恋愛ゲームのシナリオ編集者に転職した私。あまりにも忙しくなったので、実家よりも会社に行きやすい桜新町駅の近くに引っ越すことにした。28歳を目前にして初めての一人暮らし。
家の近くには素敵なレストランがたくさんあったし、スーパーは目の前だったし、レンタルビデオ店もすぐ近くだったから、最初はとても心が躍った。「よし、これから色んなお店を巡ったり、たくさん料理したり、たくさん映画のDVDを借りて観よう!」そんなことを思って、調味料も買いそろえ、奮発して大きなテレビも買った。
だけど、残念ながら店巡りも料理も映画鑑賞も、ゆっくり出来る余裕がなかった。桜新町の家で暮らした1年ちょっとは、人生の中で一番泣いた時期となってしまった。仕事はどんどん忙しくなり、友達の誘いも全部断って毎日遅くまで会社に残り、休日も仕事を進めるのに必死。趣味でやってるときはとても楽しかったストーリー作りが、うまく出来なくて本当に悔しかった。
毎日、夜中に真っ暗な部屋に帰ってきて、納豆ご飯やコンビニのお惣菜を食べて、泣いて、仕事して、泣いて、そんなことをしている間に1年ちょっとが経ち、家庭の事情で、また引っ越して家族と暮らすことになってしまった。
引っ越しをちょうど一週間前に控えた土曜日。いつも通り家で仕事をしていた私は、21時頃にふと考えた。せっかくの1人暮らし、本当にこれでよかったのか? やり残したことはないか? これで最後だぞ?
翌日の日曜日は友達の結婚式の二次会へ行く予定だったし、平日は帰りが遅いため、この家でゆっくり過ごせる時間は残りわずかだった。
そして、結論が出た。「よし、映画を観よう。エロいやつ」
ちなみに引っ越しの準備は全く進んでいなかったけれど、前日に徹夜でやることにした。
さっそく近くのレンタルビデオ店に行き、R18の映画をずらーっと見てみた。何にしよう。そんなとき、R18の中に聞き覚えのあるタイトルが入っているのが目に留まった。
『エマニュエル婦人(無修正版)』
タイトルにひかれて、私はそのDVDを手にした。それだけをレジに出すのは恥ずかしかったから、『ゴッドファーザー』を一緒に借りた。こんなことに名作を使ってしまった自分が情けない。
急に楽しくなって、スキップしたい気分で家に戻り、さっそくエマニュエル婦人のDVDをレコーダーにセットした。ドキドキ。やっと、一人暮らしを満喫できる。
するとプールサイドの美しい映像が映った。……が、音が出ない。全く出ない。
レコーダーの故障ではない。ゴッドファーザーはちゃんと再生されたから、このエマニュエル婦人のDVDがおかしい。くそぉ。
店に交換しに行こうかとも思ったけれど、恥ずかしい。私は急にやる気をなくして、はぁとため息をついて、ベッドに寝ころんだ。そしたら、泣けてきた。
神様のいじわる。最後のチャンスなのに、私にエマニュエル婦人も満足に観せてくれないの?
そしてそのまま、寝ることにした。
翌日の午前中はまた仕事をして、午後は横浜で友達の結婚式の二次会。身なりを整えた私は、駅へ向かう途中にDVDを返そうと、ビデオ店の袋を持って家を出た。パーティー用の小さいバックには入らなかった。
横浜へ向かう途中、一緒に行こうと約束をしていた友達と渋谷で落ち合った。友達が私の手元に目を向ける。「それ何?」
その時、初めて気づいた。エマニュエル婦人を、返し忘れたまま電車に乗ってしまった。
その友達は小学校からの親友でとても仲が良かったから、私は昨日からの出来事をすべて話してみた。すると友達はゲラゲラと笑ってくれた。そして、「横浜に着いたらロッカーに入れておこう。帰りに忘れず持って帰らなきゃね」なんて話しながら電車に揺られた。
約30分後、会話も弾みながら横浜駅に着き、さぁ会場へ向かおうというとき、私は気づいた。気づいてしまった。エマニュエル婦人が、無い。
どこかに忘れたらしい。電車の中か?駅で立ち寄ったトイレか?もう死にたい。
友達に言うと、優しい彼女は必死で笑いをこらえて、「まだ時間があるからトイレに戻って確認しよう」と言ってくれた。けれどトイレにもなく、私は東横線のお客様センターに「電車内でビデオ店の袋を忘れたかもしれない」ことを伝える電話を入れ、そのまま結婚式の二次会に参加した。
途中でこっそり、レンタルビデオ店のDVDを失くした時の弁償代金なんかを調べてみると、2000円~3000円くらいだった。2枚で5000円くらいか。観れなかったのに、5000円払うのか。
二次会を終え駅へ向かっている途中で、みなとみらい駅の駅員さんから電話がかかってきた。
駅員「お問い合わせいただいた件ですが、それらしき落とし物が届いています」
私「本当ですか!!」
駅員「はい。こちらでお預かりしておりますが、確認のため、DVDのタイトルを教えてください」
私「え?」
私の頭には、駅員室でクスクス笑っているだろう駅員さんたちの姿が浮かんだ。
私「ゴッドファーザーとか……」
駅員「……」
私「エマニュエル婦人です」
隣で、優しい友達が必死で笑いをこらえているのが分かった。
それから私は優しい友達とともに、帰り道とは逆方向のみなとみらい駅までエマニュエル婦人を取りに行き、恥をかき、また引き返して、途中で友達と別れ、最寄りの桜新町駅から家までの帰り道でやっとそのDVDを返却することが出来た。
深夜、心なしかすっきりした気持ちで、いつもの部屋に戻る。
この部屋で過ごす最後の日曜日。私は疲れすぎて、二次会用のワンピースのまま、ベッドにバタッと倒れこんだ。くそぉ。
人生の中で、何をやってもうまくいかない時期があるとすれば、私のそれは桜新町で過ごした1年だった。本当に辛い時期だったけれど、あの部屋だけは優しかった。泣いている私を、あの部屋だけが温かく包み込んでくれた。
桜新町から徒歩3分。私だけの、小さな1K。初めての一人暮らし。思い出は全部苦いけれど、あの時期があって本当によかった。
ボロボロの私を包んでくれた優しい部屋。ありがとう。
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