もう一個

 「はい。はい、はい、はい、そうなんです」

 電話越しに肯定するのは簡単だ。なんせ左手と足は何をしていても許されるんだ、こんなに楽なことはない。

 「はい、そうなんですね。確かに、僕もそう思います。そうですよね。はい、はい。ではまた、はい、はい、ありがとうございました。失礼いたします」

 本日の業務は終了、明日も10時から世界征服。意味もなく力こぶに力を入れる。

 ムキっ。こっそりと顔を出した彼に、何故か驚かないでいた。

 「こんばんわ、見たことある?」
 「ないです」

 質問に答える私は未だ冷静で、それがおかしくて笑った。

 「笑ってんじゃねぇよ」

 笑顔。

 「こっち見んな」

 スマイル。

 「あんだテメェ」

 気がつけば世界征服の時間だった。そんなつもりはなかったが、甥と夜を明かしていた。朝食も摂らずiPhoneに手を伸ばしたが、腕に違和感を覚えて動きを止める。ゆっくりと目を向けた先に見える腕は、すでに私だけのものではなかった。三匹の子豚が王国を築いていたのだ。私があんな奴に気をとられている間に、兄弟は家を建て、国を作り、圧政を敷いていた。後悔する私を責めるかのように冷たい風が吹く。飢饉が起こった王国の基盤は脆く、崩された城から子豚たちは逃げ出した。新たな国の誕生に民衆は歓喜したが、着信音には敵わず、iPhoneを手にした私の腕で短い歴史に幕を下ろした。

 「はい、もしもし。ご無沙汰です」

 仕事に取り掛かった私だったが、寝不足のせいか集中できずにいた。
 
 「そうですよね、気持ち的に。さすがです」

 耐えきれなくった私は相槌を打つ口はそのまま、力こぶに力を入れる。

 「はい、はい、はい。いや、その通りだと思います」
 
 ムキっ。昨日のように顔を出した甥をアルコールで消毒した。肩まで浸かったエタノールが気持ちよかったのか、私が世界を征服し終わるまでの3時間、彼はそのままで過ごした。そして、エタノールまみれの体を通過する地下鉄の風で乾かし、逆立ちしながらスティックパンを食べ始める。電話を切った私は、そんな彼に三方ヶ原の土を集める高校球児のような真剣な面持ちで声をかけた。

 「世界征服し終わったよ」

 逆さのまま腕を組み、咥えたスティックパンでバランスをとった彼は、器用に動かした足の勢いで回転した。ゆっくりとこちらを向く顔は分かりやすく泣いており、私はなんだか耳たぶが痒くなった。眉毛を濡らしている涙と、ボックスティッシュのような四角い鼻から出る手鏡サイズの鼻水を見ても彼が泣いている理由はわからず。仕方なく床に逆さ文字を書いて理由を尋ねた。

 「ものたりねぇ」

 泣き続ける彼が崩れた顔のまま言った。一つの世界を征服しただけで満足している私の姿に失望したようだ。少し腹立たしくもあったが、まだ子供である甥には根回しから武力行使まで、世界征服のほぼ全てを電話で完結させることがどれほど難しいことか理解できるはずはないのだと自分を宥めた。5歳児にかける言葉が見つからず勝手に追い込まれた私も、気づくとスティックパンでバランスをとりながら涙を流していた。一方、甥はさらに情けない姿になった叔父を見て涙の量を増やし、10秒もかからないうちに床を一級河川に変えてしまった。スティックパンが水を吸い込み、バランスを崩した私たちは、流れに逆らうことなく海へと向かう。岩にぶつかり壁にぶつかり海に着いた時には、二人揃って角がとれていた。しかし、甥の強欲は治らなかった。

 「もいっこ」
 
優しい口調にはなったが、変わらず別の世界も征服するよう要求してくる彼に苛立ちを覚えるつもりだった。しかし、丸くなった私に腹の立て方はわからず、優しい叔父として振る舞うほかなかった。

 「しょーがないな」

急足でNASAへ向かう。


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