【第19回】別れの朝

 頭の辺りで何かが動いたので、私は眠い目を擦って目を開けた。枕の脇にあるコンセントから伸びた充電ケーブルを、彼が引っこ抜いたようだった。彼は私が起きたことに気づいていない。慣れたようにうちのシャワーやドライヤーを使ってせかせかと身支度を整えていた。準備が終わったのか、時計を見て「うーん、微妙だなあ」と一人ごちる。その横顔を私は虚ろに眺めている。
 寝起きの働いていない頭で、私は昨晩のことを思い出した。彼は朝から予定があると言っていた。いつもだったら昼過ぎまでうちで寝て過ごすけど、明日はちゃんと起きて家に帰るつもりだと。早いから寝ててもいいよと。へー、そうなんだ。分かった。と私はテレビを観ながら返事をした。興味が全くないかのように。
 本当はどんな予定なのか聞きたかった。彼は友だちも趣味もなく、休日遊びに行くなんてこれまでほとんどなかった。あったとしても必ず早いうちに教えてくれた。まあ、もう関係ないものねと分かってはいるけれど、もやもやと心が晴れない。その後のテレビ番組の内容は全く頭に残っていない。彼は大きな声で笑っていたから、面白かったのだろう。彼の手は私の肩に置かれていた。ぐっと抱き寄せていた。私はのぼせそうだった。
 時間潰しに彼がスマートフォンで何かをやっている。私は「おはよう」と声をかけた。彼は「おはよう」とこちらを見ずに挨拶をした。部屋が暗かったのか、彼はベッドサイドの窓のカーテンを開けようとする。ベッドの、私の体の、すぐ横に膝をついてカーテンを開けた。こんなにも私に近づいたのに、やっぱり私には目を向けず、触れもせず、明るくなった部屋のローテーブルの前に座り込み、スマートフォンの画面に顔を落とす。私は彼に何かを伝えたかったのに、私を拒む彼の石のような姿を見て二言目が出てこなかった。キャッチボールをしたかったのに、投げたボールを屋根の上に乗っけられて取りに行けず、強制的に遊びを終了させられてしまったかのようで、私は黙るしかなかった。
 私はまだ眠くてベッドから出ることが出来ない。どうか最後に彼が私を抱き締めてくれたらいいのにと夢を見ていた。
 彼は私との交際を「黙っていても居心地が良い」と言った。会話の少ないカップルだったと思う。今はとても居心地が悪い。悪くなってしまった。変わってしまったら、もう戻れないのだ。そう、分かってはいても。
「やっべ!」
 彼は慌てて立ち上がり、コートを羽織る。
「ゲームしてたらバスに乗り遅れそうになった。まずい。走らないと間に合わない」
「え、大丈夫?気を付けてね」
「うん!じゃっ」
 彼は私の顔を見て、言った。いつもと同じ顔でいつもと同じ声だった。思わず、この人はまた来週も来ると予感してしまったほどに。今日までの、私と彼との間のいざこざやすれ違いが消え去って、また付き合い始めた頃の真っ新な気持ちで日常が始まると感じた。一緒に観ようと言って観れてない映画もまだあるから、きっと来週の夜には観られると思った。私はベッドの中から彼に手を振った。
 玄関をバタンとしめる音が聞こえた。走る足音が遠ざかっていく。彼の足音が聞こえなくなると、私は布団から出て、玄関の鍵を締めた。ローテーブルの上には彼に渡していた合鍵が置かれていて、先ほどの妄想は全くの勘違いだったと知る。久し振りに戻ってきた鍵に指を滑らせる。
 私は暗い部屋が好きで、日が出ている時間帯は電気をつけずにいる。しかし目の悪い彼にはこの部屋は暗すぎるから、うちの遊びにくるとすぐに彼は電気をつける。特にそのことで文句を言ったこともない。私が暗い部屋が好きだと明言した記憶もない。
「今日、彼は電気をつけなかった。はじめてカーテンを開けた」
 私は鍵を見てそんなことを思った。二度と戻らない時間を思い返しながら、鍵についた薄い傷を数えている。

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