【第8回】神隠し

 お盆に帰省した日の夕方、やることもなくエアコンの効いた部屋でうとうとしているうちに、昔神隠しにあったことを思い出していた。

 わたしは多分10歳くらいだったと思う。秋だった。車の窓から見える秋晴れの空と広がる田んぼ、それに真っ赤に咲いた彼岸花が綺麗だったのを覚えている。
 後部座席に乗ったわたしと妹と弟は、もうすぐいとこに会えるのが楽しみでしょうがなくて、始終はしゃいでいた。車が揺れるくらい騒いでいたのに、運転をする母と助手席に座る祖父だけはずっと静かだった。
 もしかしたら、わたしたちは車の中がしーんとなるのが嫌だったから騒いでいたのかもしれない。

 前と後ろでテンションの差が激しすぎるこの異様な車は、のどかな田園地帯の風に包まれて親戚の野田じぃの家に向かっていた。
 野田じぃが亡くなったという報せを受けて。


 野田じぃとはお正月やお盆に何回か遊んでもらったこともあるけど、家に行くのは初めてだった。
 野田じぃの家は山の麓にあった。二階建てで、広い庭があり、古いけど立派な木造の家。想像していたよりも大きくて、少し怖く感じた。
 庭には車が2台止まっていた。
 白い方はいとこの家の車だろうけど、もう1台の赤い車は誰のだろう…。
 初めて見る車にもっと怖くなる。
 でもそんなわたしには目もくれず、母と祖父はそそくさと車を降り、妹と弟も一刻も早くいとこに会いたいようで駆け出していく。
 「早く降りなさい」と母に急かされ、わたしは渋々車を降りて母と祖父の後ろに隠れながら玄関へと向かったのだった。


 …ここから先はなぜか記憶が曖昧だ。きっと亡くなった野田じぃに手を合わせたんだと思うけど、もうお葬式は済んでいたのか、まだご遺体もあったのか、お坊さんはいたのか、それともお線香をあげるだけだったのか、そういうことを何一つ覚えていない。

 覚えているのは子供だけで居間に集まっている場面からだ。
「子供はあっちで遊んでてね」って野田ばぁにでも言われたのかもしれない。野田ばぁは野田じぃの奥さんで、優しい野田じぃとは真逆で厳しくて怒りっぽかった。
 広いテーブルにはジュースの入ったコップが9つあった。わたしたち3人と、いとこ3人、それにあの赤い車で来たらしい親戚の子供3人の分。
 もともと人見知りなわたしは初めて会う親戚の子が怖くて、みんなから離れてソファに座っていた。
 いつもと違う親の様子、初めて来る場所、初めて会う親戚に戸惑って、みんな座ったまま黙っていると、一番大きい親戚の男の子が「ね!みんなで探検ごっこしようよ!」と無駄に大きい声で言った。
 この気まずい空気を解消し、なおかつワクワクできるアイデアを出してくれたのだ。もちろん、全員賛成だった。


 大人が集まっている部屋を除いて、居間、台所、廊下、トイレ、物置、階段をこっそりと探検した。先頭が言い出しっぺの男の子、最後尾がわたし。大人に見つからないかドキドキだった。
 探検して分かったが、野田じぃは模型を作るのが好きだったらしい。ガラスの箱に入れられた大きな船の模型が至る所に置かれていたし、壁には昔の飛行機の模型が誇らしげに飾られていたのだ。小さい瓶に入った船の模型もたくさんあった。
 小物やおもちゃの収集癖もあったようで、珍しいおもちゃや異国のお土産がタンスの上やテレビ台、階段の端っこなどに所狭しと並んでいた。
 初めて見る物の数々にわたしたちは大興奮だった。今にも大声をあげて走り出したい衝動を抑えて、ニヤニヤを交わし合うのもまた楽しかった。

 忍び足で階段を上ると短い廊下があり、左と右にそれぞれ一つずつ部屋があった。左は襖、右は木のドア。
 どちらにしようかなで襖の部屋に決まり、妹が襖を横に引いたその瞬間、絵の具の匂いが鼻から肺を突き破り全身に充満した。


 そこは野田じぃのアトリエだった。
 くらくらするような油の匂いで満ちたアトリエには、何枚ものキャンバスが積み重ねられたり立て掛けられたり布が被せてあったりで雑然としていたが、不思議と汚いという印象は受けなかった。
 窓からはどこまでも広がる田んぼと彼岸花が見えた。
 まるでこの部屋だけこの家から孤立しているような、全く異なる空気を持っていて、わたしは入った瞬間からこの空間に物凄く惹かれていた。
 それに対してみんなは、あまり面白いものは無いと判断したのかもう次の部屋へ行こうとしていたので、慌てて「隊長、拙者はここに残るでござる」と先頭の男の子に告げ、「分かったでござる」というありがたいお言葉を頂いた。

 取り残されたわたしは、絵に触ってはいけないと分かっていながらも、好奇心を抑えきれずに積み上げられたキャンバスを一枚だけどかしてみた。
 そこには、遠くの山々と田んぼと少しの家が描かれていた。初めて油絵を近くで見た…。表面がでこぼこしていて生きているみたいだった。見たことないのに、この風景を知っている感じがした。
 その下にはお皿に乗ったぶどうと栗が描いてあった。最近描かれたものかもしれない。その下には花瓶に挿した一輪の彼岸花、その下には激しく流れ落ちる大きな滝、その下には……。
 気がついたら積まれたキャンバスを一山全部見てしまっていた。野田じぃの絵は風景と静物が多く、人や顔を描いたものは一枚もなかった。とても綺麗なのに、どこか悲しくなるような絵だった。とても好きだと思った。

 結構長い時間部屋に閉じこもっていることに気がついたわたしは、アトリエから出て、まだ入っていない向かいの木のドアを開けた。そこにみんないるだろうと思って。


 しかしだれもいなかった。
 その部屋は野田じぃの部屋だった。そんなに広くはなく、入って右側には窓に面した机と椅子が、左奥には今まで見た中で一番大きな船の模型がガラスケースに入って鎮座していた。
 ここを探検してから一階に戻ろう。そう思って部屋に入る。机の上には作りかけの飛行機の模型があって、あぁ、死んでしまったのかと少し思った。
 机から離れて模型の方へ向かう。大きな船だった。わたしの倍の高さはある。船の帆を繋ぐロープや大砲を撃つ穴の細かさに見とれていると、ふと、ガラスケースの後ろに幅1メートルほどの空間があることに気がついた。ガラスケースの左側にも人が通れるほどの隙間があったのでそこを通り裏に回ってみる。
 こんな感じ↓

画像1

 そこは小さな秘密基地みたいだった。壁が全部本棚になっていて、色々な漫画が並んでいた。わたしは少し歓声を上げて、一番右端からコボちゃんの漫画を見つけ出すと、壁とガラスケースの隙間に寝そべって読み始めた。



 あぁ、いつの間にかねむっていたみたい。周りはもう薄暗くなってて、漫画の文字もよく見えない。腕を枕にしていたせいでしびれている。下に降りなきゃ、そう思って起き上がろうとしたその時、部屋のドアが開いて誰かが入ってきた。
 怖い。見つかったらいけない。
 一瞬でそう判断し、起き上がりかけたままの体勢で動きを止める。腕のしびれをはっきりと感じる。きっと船のおかげで姿は見えていないはず。
 部屋に入ってきた人の足音がする。足と床が擦れる音、床が鳴る音、ひどくゆっくりと歩いている。椅子を引く音、椅子が軋む音、そして音がしなくなった。
 怖かった。誰か分からないのが怖かった。
 顔を見たい。誰なのか確かめたい。でも見たら見つかるかもしれない。わたしはただ同じ体勢のままじっとしているしかなかった。

 本当に長い時間そうしていたように思う。腕のしびれが引いてきた頃、相手に動きが。

 泣き出したのだ。正確には鼻を啜る音が聞こえてきた。次第にそれに嗚咽が混ざり始めて、最終的には泣き声になっていた。その声は子供でも赤ちゃんでもなく、大人の泣き声みたいだった。そのことになぜだか少し安心して、また泣き声のせいでこっちの音にも気づかないだろうと考えて、ついに顔を見ることにした。
 まずは体勢を整える。ゆっくり、慎重に。しゃがんだ状態になったらなるべく低い姿勢を保ったまま頭だけを船の上に出して…



!!!!



 一瞬だった。一瞬しか見れなかったけど、あれは、ガラスケース越しに泣いていたのは、確かに野田ばぁだった。
 野田じぃの作りかけの飛行機を抱えて野田ばぁが泣いていた。
 だんだん泣き声は激しくなって、もう完全に泣きじゃくっていた。耳を塞ぎたかった。大人が、野田ばぁが泣いているのが信じられなかった。大人でもこんなに泣くんだ、と冷静に思う自分もいた。
 泣き声に「あなた」「なんで」「どうして」「おいていかないで」という声が混ざり始めた時、自分はなんてひどいことをしているんだと気づいた。

 これはほんとうに見てはいけないものだ。最低だ。早く逃げ出さなくてはならない。それなのに、今出て行くのは一番いけないような気がする。
 野田ばぁの泣いている姿を見ていいのは野田じぃだけだ。野田じぃだけに見せるためにこの部屋に来たのに、わたしがいたら台無しじゃないか。
 見てはいけない、聞いてはいけない、でも耳を塞ぐのはもっといけない気がする…。

 野田ばぁが出て行くまでただじっとしているしかない。わたしはじっと、すこしも動かずに野田ばぁの泣き声を聞いていた。


 野田ばぁはそれから泣き続けて、わたしは息を潜め続けて、野田ばぁはしばらく泣いた後急に泣き止んでまた静かに部屋を出て行った。
 あまりにも急だったのでわたしは本当に野田ばぁがいなくなったのか信じられずに5分くらい動かずにいたけど、船の後ろからそうっと顔を出して本当にいないことを確かめてから、はぁ、と息を吐いた。

 もう部屋は真っ暗になっていた。


 それからは、急にいなくなったわたしを探し回ってたみんなに怒られ、「もうすぐで警察に連絡するところだったよ!」ってたくさん言われ、「どこにいたの!?」ってたくさん聞かれた。アトリエも野田じぃの部屋も探したけどいなかったらしく(わたしがガラスケースの後ろでねむってた時に探しに来たのかもしれない)、わたしはどう答えればいいかわからずに「どこにいたかおぼえてない」って答え続けたら、結局「神隠しにあったんだろう」ということになった。

 この日、大人が泣く姿を初めて見て、人が死ぬということが少し分かった気がした。
野田ばぁの泣き声はあの時の緊張感とともに、一生忘れることはないと思う。


魚宮のぅ

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