【第9回】おしまい

 道が途切れている。サカナは目の前を指さして言う。
「ごらん、おしまいだよ」
 ヒヨコは頭を傾げた。「おしまい」という言葉の意味を知らなかった。でも、サカナが口にした「おしまい」という得体のしれない言葉の響きにヒヨコは恐ろしくなってサカナの手をぎゅっと握りしめた。ヒヨコはまだ幼い。身長はサカナの胸の高さほどだし、知らないことも多い。サカナだってまだ子どもだ。たしかにヒヨコよりもお兄さんかもしれない。それでもまだ世界のことは知らない。サカナの目から涙が溢れそうになっている。二人の目の前には進むべき道がなく、木枯らしが憐れむように吹いている。夕陽が落ちる。空が真っ赤だ。とても眩しい。
 サカナはヒヨコを抱き締める。肩に顔をうずめる。ヒヨコが着ている柔らかな絹のワンピースから懐かしい香りがする。それはこの旅が始まったときの、とうもろこしのスープを頂いたあの老夫婦が育てたお花畑の香りだった。サカナにはずっと遠い昔のことのように感じる。あそこにはすべてのお花が咲いていた。サカナとヒヨコは老夫婦に植物図鑑を見せてもらいながら、並ぶ花々を説明してもらった。サカナはひとつもお花の名前を思い出せない。
「サカナ、サカナ」
 ヒヨコはサカナに抱き締められるのがくすぐったいらしい。体をよじって笑う。サカナの体を離そうとする。ヒヨコが嫌がるのが面白くて、サカナはよりぎゅっと強く抱きしめる。
「ヒヨコ、ヒヨコ」
 サカナはヒヨコの小さな命が自分の腕の中にあることを奇跡に思う。サカナの涙がヒヨコの頬を濡らす。
「どうして泣いているの」ヒヨコは観念してされるがままになっている。
「僕たちはもうおしまいなんだ」
 そう言うと、サカナはより強く力を入れた。ヒヨコは痛く感じるけれど、我慢している。ヒヨコの瞳はまっすぐに夕陽を見ている。
「おしまい、やだ」
 ヒヨコは小さく呟いた。サカナは耐えきれず嗚咽をあげる。お花の香りはサカナのしょっぱい悲しみの匂いに変わる。太陽は沈み続ける。
 しばらくするとサカナはヒヨコから体を離して、涙を拭った。そして言った。
「ヒヨコ、これまで楽しかったことをお話しして」
 ヒヨコは、あごに手を添えてうーんと少し悩む。楽しかったことが多くて何を話せばよいのか分からなかった。あれがいい、とヒヨコは目を輝かせて語り始める。

 カエルの里を訪れたとき、わたしとサカナはその里で一番体が小さなカエルのおうちにお世話になった。小さなカエルはわたしたちに親切にしてくれた。げろげろと鳴く方法を教えてくれた。おたまじゃくしだった頃の思い出を聞かせてくれた。雨に濡れる喜びを一緒に経験した。ある日、サカナが隣の家にお邪魔している間、わたしと小さなカエルはふたりっきりでお話をした。紅茶を啜りながら、昨今のカエルの里の噂話をしてまるで貴婦人のようにお茶会をしたのだ。葉っぱの形をしたクッキーがおいしかった。わたしは小さなカエルに聞いた。
「ねえ、わたしとサカナはどうなると思う?」
「あなたたちが望むようになるわよ」
「わたしはサカナとずっと一緒にいたいな」
「じゃあ、ずっと一緒だよ」
 小さなカエルは立ち上がり、宝石箱からアンクレットを持ってきてわたしに手渡した。
「願いが叶うお守りだよ。これを身につけなさい」小さなカエルはウインクをした。

「ねえ、これがそのときのアンクレット。すてきでしょう」
 ヒヨコはワンピ―スの裾をひょいっと持ち上げて足首をサカナに見せる。きらりと石が輝いた。
「すてき。どうして今日まで見せてくれなかったの」
「小さなカエルがね、願いが叶うまで秘密にしてなさいって言ってたの」
 ヒヨコは笑った。
「願い、叶いそうだね」
 ヒヨコは遠く、沈んでいく太陽を見つめてそう呟いた。
「そうだね。おしまいも悪くないね」
 サカナはまた、ヒヨコを強く抱き締める。
「僕もヒヨコとずっと一緒にいたいよ」
「サカナ、サカナ」
「なに、ヒヨコ」
「いつもみたいにねむりたいな」
 ヒヨコはそう言って、サカナの腕から抜け出すと足元の石を取り除いて、寝床を拵え始めた。サカナも一緒に石を拾って脇に避けた。いつもと同じように。
 ヒヨコとサカナは横になった。ヒヨコがバックの中から大きなタオルケットを取り出して、二人でタオルケットに包まる。おしまいはもうすぐそこまで来ている。
「サカナ、サカナ」
「ヒヨコ、ヒヨコ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ヒヨコとサカナは手を握って、目を閉じた。数秒後に、おしまいはやってきて、二人をどこかへ連れ去った。
 アンクレットは輝いていた。



清水優輝

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