【第7回】 2019年8月31日


 昨日はずっとねむかった。ごはん食べているときもセックスしているときも眠かった。寝ている間はずっと夢を見ていた。何を見ていたのか忘れてしまった。
 そんなだから、恋人に起こされて髪の毛ぼさぼさのまま、すっぴんのままで家を出た。外は太陽が燦燦としていて暑かった。今日が8月31日なんて思えなかった。まだ夏休みが続く気がした。駅前で和太鼓のパフォーマンスが行われていた。周囲に人だかりができていて、私たちは遠くからそれを見た。駅へ行く人、ショッピングモールへ行く人、みな足を止めていた。和太鼓は力強く、かっこよかった。普段、駅前で歌っているシンガーの前では誰も足を止めない。通り過ぎる人々がみな忙しいからではなく、シンガーの歌が下手だからなのだ。
 「優輝の感性好きだよ」「清水さんの文章いいね」と何度か言われたことがある。その言葉だけに縋って今もこうして悪あがきのように文章を書いている。でも、大勢から評価を受けたことはない。良いとも悪いとも言われない。注目されるために書いているわけではないが、誰も私の文章に「足を止めない」現実を悲しくは思う。


 恋人とインドカレーを食べた。中辛にしたら辛かった。目が覚めたと思った。でも、少し経ったらまた眠くなってきた。大きなナンをなんとか完食した。おなかがぽっこり膨れた。恋人は大きいナンを2枚食べていた。すごい。
 店を出て、お散歩をし、広い公園でひとやすみ。木の下で日陰になっているベンチを見つけて二人で座る。何かを話すわけでもなく、ぼんやりと時間が過ぎるのを楽しんだ。私はやっぱり眠たくて、ずっと目を閉じていた。蝉の鳴き声や風で揺れて葉が擦れる音、公園で遊ぶ子供の声、自転車のタイヤが回る音を聞いていると、穏やかで平和な世界に訪れたように錯覚する。ずっとここで人生を外から眺めたいと思う。「私は消えていきたいのだ」とかつての私が語っていたのを思い出す。ずっと「誰か」になりたがっていた私が、あるときを境に「消えたい」と願うようになった。希死念慮の類のものではない。私が私から解放されて、世界に溶け込んでいくときに初めて悦楽を知る。私が存在しなくても世界はずっと美しいままにあって、そのことがすごく嬉しい。風景画を描くように小説を書けるようになれたら素敵だと思う。会社員としての私も小説を書く私も過去の私も恋人としての私もすべて手放して、ただここの公園のベンチで「ここにいる」ことを楽しむ、それだけでよいのだ。現実は、そううまくいかないことが多いのだけど。

 恋人の家へ行き、また眠る。また夢を見る。また忘れる。4階のベンチで空を眺める。恋人の足を触る。うとうとする。

 吉祥寺に移動して、シーシャを吸った。レオナルドディカプリオ主演『シャッターアイランド』をNetflixで観る。連邦保安官テディとその相棒チャックは、孤島にあるアッシュクリフ精神病院を訪れる。この精神病院は凶悪犯罪を犯した精神病患者を収容している。ここの患者であるレイチェル・ソランドと言う女性が失踪したため、二人は調査にやってきたのだった。テディは調査をしていく中で、徐々にこの精神病院の秘密に触れてしまう……。サスペンス映画なので、これ以上は映画を観ていただきたい。半分くらい観たところでオチが読めたが、悪夢的な演出、映像が愉快で楽しく観れた。しかし最後の結末は悲しい。
 自分のことを才能があり、超一流の売れっ子作家だと思い込んで生きているただの無職がいたとする。他人が書いた本を「これは俺の作品なんだ」と嬉しそうに語る。そのような妄想を病気だと言って、あなたはただの無職ですよと教えるのが治療なのか、それとも「すごいですね」と彼の妄想に寄り添って妄想の中で生かしてあげるのがよいのか。これに似た問題をかつて親しくしていた人からも言われたことがあった。世間的には間違っていたとしても、当事者が幸福であれば嘘でもいいじゃないか、と彼は言っていた。私は今も答えが出ない。
 私だって妄想に囚われている。いつか文章で有名になる。誰かが「あなたは間違っていますよ、会社員として平凡な生を歩むのですよ」と言ってくれたら楽になるのにと時々思う。でも、そういわれても私は文章を書くのが好きだし、やめられない。何のために書いているのか分からない。書きたいから書いている。それだけなのに、呪いのように今日も書いている。


 シーシャ屋さんで恋人と解散して、すぐにまた眠くなってしまった。電車で眠り、家に帰ってからもすぐに横になった。しばらくすると9月が来た。時間はゆっくりと確実に過ぎていく。


清水優輝

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