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震災について

※今日のブログはほぼ先週の金曜日に書いたことです)

注意書き:なるたけ、全力で自衛してください。


今から10年前、小学5か6年生の時に東日本大震災があったと思う。この話は、書くことは、自分の整理のために決めていたけれど、公開するかは迷った。
自分の、結局は何もできなかった、そして、これからを生きるという思いを吐き出すために書く。
誰にも話さずに、考え続けたが、誰にも話さないというのもよくないと、最近改めて感じさせられる。この話もいつかしていきたいと思う。

地震が起こった当時、その時はテレビを観るのもしんどかったことを覚えている。教室の中で授業を受けていた時に地震が起こり、これはただ事じゃないと直感で感じた。関西という遠い地でも感じたことだった。

それでも、みんなは机の下に隠れなかった。私(ほかにもいたかもしれない)は、机に隠れようかどうしようかという中途半端な体制で先生を懸命に見ていた。なんで隠れないんだろうって。

危機管理能力の正常性バイアスは、動物であるということを忘れがちな人間だからこそだろうか。

それからはあっという間のようで、長かったようにも感じる。

その時に書いた東日本大震災についての作文は最優秀賞に選ばれたが、とても後ろめたかった。
今でも後ろめたい。なぜか。「ネタ」にするために書いたわけじゃないのに、選ばれた。この一点に尽きると思う。

また、人々への発表という活動も、自分の中では影響があるのだと思う。自分が熱烈に思ったこと、感じたことを、ましてや他人に、堂々と発表するなんて、なんておかしな話なんだ、と。まあこう思う以前から転校やらいじめやらで感じ方、考え方の歯車が狂っていったんだけれども。

でも当時は、この思いを何とかして伝えたいとは思っていたんだと思う。

しかし、当時の作文を選ぶ側の審査員の方々は、どのような思いを持って選んだのだろうか。それも、気がかりだった。すべてに精いっぱいだった私はそんな疑問も持たなかった。
今なら、お伺いすることができるのであれば、お伺いしたい。

そういえば今日(先週の金曜日)、今日のやりたいことリストとして前日にリストアップしていたものの一つに、小学校に当時の募金についての報告書、資料等はないか、というお伺いの電話をするということを挙げていたので、話す内容を整理して原稿を書いてから準備万端で電話した。

電話するまで20分はかかったのではないだろうか。まあ、こんなもんだろう。電話するぞ、と考え始めてから7年ほどは経っているけれど。

折り返しの電話をしますと仰ってから5日経った。本当にとてもお忙しいのだと思う。期待は0、絶望感も0のつもりで今を過ごしているため、電話できただけでも良かったと思っている。(まだどうなるかはわからない。)

話は戻ります。ちなみに、話の脱線はどうしたら治るのか。詳しい方が、万が一にも閲覧してくださっているなら、ぜひ教えて頂きたいです。ちなみに、私の考えでは、並行してごちゃごちゃと考えているからだと思う。多分。適当かな。

その時は、この思いをどうにかして、何かをしなきゃという思いに駆られていた。そこで募金活動をしようと決断し、友達が賛成してくれ、先生にご相談させて頂き、協力を得ながら学校内で募金活動をすることになった。その時に集まった額は、ざっと7万円ほどだったと思う。

学校内でも集まるときは集まるのだと今更ながらに思う。それでも、みんなが同じように感じてくれたなら、誰かのためになっていたなら、まだ救われるのかもしれない。

それから、何もできずに(またいろいろあったし、この間抑うつ状態だった)はや10年。昨年の11月、ちょうどコロナが収まっている最中に福島県に、母と二人で旅行しに行った。いっしょに行ける人、連れて行ってくれる人、家族がいるのはとてもありがたいと、つくづく思う。まあこの話は置いといて。どこか行こうか、って話をしていた時に、私が、「福島県に行きたい」と言った。

どうなっているのか、今この目で確かめて、いかに自分が幼くて愚かだったのかを確かめて、現状を知るためでもあった。行きたい場所は決まっていた。
海に行きたかった。テレビで観た海に。行かないといけないと思った。ほかに行かなければいけない場所もあったとは思うけれど、私にとっては海だったんだと思う。

旅行中での出来事はその都度省いているが、事実であり、感じたこと、考えたことである。


福島駅の隣接しているホテルのコンシェルジュの方にどのようにしたら海に行けるのかということを相談したが、結論、交通の便が良くなくて、車で行くしかないということになった。私は運転免許証という非常にありがたいものを持っていなかったため、母が数時間かけて見知らぬ土地でレンタカーをして、わたしの役に立たないナビゲーションをしながら海まで行った。母には感謝しかない。

道中は私的にはあっという間だったように思う。(母にとってどうかは知らない。)1泊2日で行ける場所も限られていたので、過ごす場所は海か車かであった。その日の朝に観たテレビで、海の近くに新しく道の駅ができていたことを知った。行き当たりばったりではあるが、そこにも行こうという話になった。

実際に海にたどり着く途中で思ったこと。まず、街の中も通るので、街を見て、この街を本当に海が、地震が奪ったのかということ。(海は多大で壮大なものだから、奪ったという表現は正しいのかわからない。)


なんでこう思うのか。10年間の間の福島への自分の意識と認識と、実際の現地の風景の差(ギャップ)が表れた感情だったのだと思う。

多分緊張状態で車に乗っていた。本当に海に行くのか。身体は海に向かっているのに、心は緊張していた。

海に到着してからは、まず目的地1つ目の道の駅でご飯を食べた。海鮮も御飯もおいしくて、そこの食堂で働いている方たちも清々しくて、温かくて、今を生きていた。
今、抑うつの自分も、改めて思い出すと、生きているんだと感じる。

その食堂も昼間だったため人が多く、食堂も列が並んでいた。列に並んで待っている時、壁一面(電車1両の半分くらい)に日本地図が書いてあった。

これは、東日本大震災で寄付や支援をした市や町の名前が、地図の場所で表されていた。私は30分ほど待っている中、それをずっと見つめていた。そこには、自分の地元、人口3万人ほどのド田舎の市の名前も書いてあった。(生まれは名古屋、転校したので育ちはほぼ滋賀、大学は愛知)それを見たときの自分は、鳥肌が立った。(今更ながら、写真を撮っておけばよかったなと思う。)

それでも、当時、布団や必需品、寄付をしていたのは、そういった、「市」としての支援があったからなのだと知った。そして、自分の市の市長(前市長)と相馬市の市長が提携というか、連携していることもネットで調べて記事で知った。
ああ、こんなことがあるんだと。美化しているからか、そのことを知った時の気持ちは、言葉に表せない、複雑で、アンビバレンスなものだった。

それから、鎮魂記念館に行った。新しくて、小さかった。そこには震災が起きたときの新聞、写真、報告書があった。それらを見ながら読み、2時間ほど滞在していたと思う。報告書は数冊あって、速読力もなく、読み切れなかった。当時の状況、市長の指示というか、言葉、思い、人々の言葉、思い、状況が書き記されていた。しかし、報告書で読んだことの想像する以上の状況が迫っていたはず。

もしも行く人がいるなら、報告書も閲覧して、感じてほしいと思う。

上記のように、自分の信念のためだけに生きてきたとは思う。誰かのために、って(その「誰かのために」っていうのは、勘違いかもしれない)。結局、何がしたかったのだろうと考えたときに、「こう思っていたから、こうしたんだ。」という言葉に至る。この感情の原動力は凄まじい。

おかしいよなあ、自分の人生、自分のためのはずなのに。いろいろありすぎて、今後のブログでも独り言で語っていきたいが、考えてきたこと、感じたことをアウトプットできるだろうか。それも、自分の課題なんだろうとは思う。
いろいろありすぎてとは言ったが、「私」にとってのありすぎて、だ。これは間違いない。

昨年秋、履修していた哲学の講義の一部で、この大震災でのリスク管理についてのテーマを扱っていた。「今日の科学技術の価値観とリスクコミュニケーション」と題してレポートを出した。最終的な帰結として、第三者的存在を交え、情報の透明性を明らかにして、知るということ、選ぶという選択の自主性を養うことが大事なのでは、ということにしていた。とても曖昧な帰結で、この視点も、常に、第三者的な、外側、外部からの視点であると、今でも感じる。(フィールドワーク、お話をするという対話が足りないことが関係しているのはわかっている。)

復興の需要とは、というテーマをNHKで観たことがある。私も、どこかでそのことを聞いたことがあった。そして、今年の冬、復興の需要について、整理して記述したものもあるので、そのことについても今後言及していけたらいいなとは思うが、素人目線で、センシティブな内容のため、全力で自衛して頂きたい。

今日はこの辺にしたいけど、このことに関連してまだまだ書きたいことは温存してあるし、背筋はまっすぐに伸びないし、肩は凝っているし、頭は熱が出そうな状況だった。(今日友達と5時間話して頭痛と熱が出た)(※今日のブログはほぼ先週の金曜日に書いたことです)

本当は休まないといけない状況(精神的にも身体的にも)なのに、2週間ほど前、土日、スポットのバイトを入れてしまった。焦燥感しか募らない時には、何もしないが吉。そう学んだ、学んでいる最中だ。

そう、昨日(先週の木曜日)は祖母とも電話をした。毎回言われるのが、

「変な気を起こさんで。」「家族みんなが(自分の名前)のことを思ってるんやからな。」「あんたが健康でいることが一番。」

自分の倍以上生きている人の言葉。自分に向かってきた言葉を受け止めたい。

余裕はない。多分これは毎回の記事で、自衛するために言うと思う。

余裕が出てきたと自分で自然に思ったら、ノートを書いてる方々をフォローしたり、拝読したりできるのかなとは思う。本当に日記なのに、見てくれているのがありがたい。今日もありがとうございました。

明日は明日の風が吹く。

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