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夜の帳を下ろされ続けている

ダジャレ禁止令

世にも奇妙な物語の中で、私の心に深く残っている作品「ダジャレ禁止令」(今調べたら1998年の作品だった)。
「ダジャレ禁止令」という法ができてしまった時代、ダジャレが大好きなおじさんが言いたくて言いたくてしょうがない日々を送っていたときにとあるビルの地下にある秘密クラブ?でダジャレを言いたい人たちが集まって夜な夜なダジャレを言いまくっていることを知る。そこに通っては日頃言えないダジャレを言いまくってデトックスするおじさんたち。しかし警察に摘発され、攻撃をされる。最後の言葉は「ダジャレを禁止したのは、ダレジャ」
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なんとなく今引っかかって、「反町隆史 ポイズン」で調べた。発売は同じく1998年だった。「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン」

1998年と言えば、戦後過去最高の不況の時期。金融ビッグバン、長野オリンピックもあったわね。そんな1998年。その前の年から消費税導入、円安超低金利。
なるほど。

抑圧された人々はいつしか地下に集まる。文化、アンダーグラウンド。政治的なことは書かない、というのは一貫して思ってきた。なんでも批判はあまり好きじゃない、現状を知り過去を知り、前向きな話し合いを望む。



生きることに一生懸命になること、それは短い時間なら可能だと思う。最低限の衣食住、数日ならまあいけるかもしれない。生きることに一生懸命になって、その生活が決して以前と変化なくまだまだ一生懸命やらなきゃなかったとしても、人々の心に芽生えるものこそが文化(アート)であると思う。アートとは崇高なものではなく、日常を支えるための一つのライフラインだとさえ私は思っている。

同じことを繰り返さないために、アートはアップデートをし続ける。それを止めてはならんよ、と私は思う。たくさんのアーティストの魂の上に私たちは立っていて、日々命を燃やす人々にアートを余暇を供給していくのだ。止めてはならんよ。
アートにも需要と供給があり、消費者と表現者がいて、成り立っている。消費することでアートを楽しむ人がいる、それは日常の様々なところで供給する側がいる。それで成り立っている。

アーティストは政治家にはなれない。政治家になった途端、その人はアーティストでなくなってしまう。自分が置かれたコミュニティ・あるいは同時代のパーソナリティを反映していくことがアートの全てだ。

演劇分野で言うならば、これまでの1年以上の間で稽古期間中の検温やPCR検査、本番前のPCR検査、出演者だけでなく観客への感染予防対策などしっかりとノウハウを溜め込み愚直にやってきた人たちばかりだ。
1年以上も。真綿で首を絞められながら、それでも表現に立ち向かって行ってなお、なお。ものすごく悲しいと思う。息も絶え絶えな状態でよく頑張っていると思う、でもほんとにもう限界が、そこに。

舞台の興行収入は観客のキャパ8割で予算立てしているところが多いかと思います。そのキャパというのは通常時の満席からの8割で、スタッフさん役者へのギャランティ、劇場代や稽古場代・電気代などなどを出していきます。キャパを半分に、となった時点でかなりの持ち出しが必要になるのです。この期間中ずっと様々な劇団の動向を見ていましたが、チケット料金を上げて興行するところはほとんどなかった。観客のため料金据え置きで、しかしコロナ対策費用はかかる・検査だってやるのもそうだけど結果待ちの間は精神的にきつい、誰か一人でも陽性となればそこでおしまい、できるかどうかもわからない。ものすごいストレスを抱えて首には真綿を巻いたまま。

劇場を閉めるということは、もう走り続けていけなくなるかもしれないということです。
図書館の閉館にもかなり憤っています。
大雑把に見ないで欲しい、一つ一つ精査して規制して欲しい。だってこんなに時間があったはずでしょう、アーティストの息がもう続かなくなるくらいの時間が。


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