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それは表現で得られる癒しなのかもしれない

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは書きました、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」を「カタルシス」と。医学領域でも使われるカタルシスという言葉の始まりは演劇用語で、特にギリシャ悲劇なんかを観てね「悲劇ー、かなしみー、えーん」と泣いたりして観客は心の浄化を図るわけです。

演劇と心理学、そして哲学は紐づいていると思うです。私は演劇を教える仕事をしています。元々役者だったのですが育児期間に入り「そう言えば発声とか教えること好きなんだった」と思い出し、今に至ります。役者時代は客演も多かったので多くの演出家に出会えたし、演技の先生方にも恵まれていたなあと思います。今はその時もらった様々な言葉や行動を思い出し紡ぎなおし、初心者からプロまで演劇を心から楽しいと思える時間を提供しております。

私の講座のひとつに、【演劇】自分らしい表現を知りたい人のためのワークショップというものがあります。そのクラスの中で大切にしていることは「普段の自分から解き放つ」ということです。コミニュティも立場もあらゆる括りを飛び越えたその先にある、剥き出しの自分に触れてもらう時間を大切にしています。そしてその自分を愛でてもらうのです。お疲れな現代人の自己肯定感アップのために立ちあげた講座ではありますが、剥き出しの自分が別の人の人生(台本の役ですわね)になることで得られるカタルシスに触れることがよくあります。これは私にとって二次的な産物ですが、最近よく見られるようになりました。その理由の1つには私が講座を繰り返すことで「解き放つ」までのファシリテーション時間が短くなってきたのだろうということと、コロナ禍でエンターテイメントを享受する側だった人たち(つまりカタルシスを経験した可能性のある人たち)が二進も三進もいかない状況から脱却するべく表現者側に回ってきたということかなあと思っています。

感性は教えられて得られるものではなく、環境により育まれるものだと思います。強い感性を持った人たちが、癒しのために演劇に触れていく。そんな流れを今感じています。

人間は2つに分けられると思うです、「表現者と表現しない人(消費者かもしれない)」。そして表現者とは哲学者です、哲学者の全てが表現者とは限らないけれど。そして一行目に戻る。では

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