「手段の目的化」をもう少しだけ考えてみる
ジェーン・スーさんのラジオ『生活は踊る』の人気コーナー、「相談は踊る」。
1月17日の放送にて、「初対面の人と話すのが苦手」という方からの相談が取り上げられた。
スーさんの回答を要約すると、
「うまく会話することにこだわる必要はない。会話は手段であって目的じゃない」
というもの。
会話は他者と関わるためのツールであって、それそのものを磨くことは、手段と目的が逆転する「手段の目的化」にほかならないというわけだ。
この「手段の目的化」、スーさんがたびたび口にする表現なのだけど、われわれの生きる現実にいくらでも存在するような気がする。
受験勉強も、入試は大学や高校に入るための手段であるにすぎないのに、合格することが目的化している例が少なくない。
もちろんそれが悪いわけじゃないけども、合格したら目的を喪失したなんて話、よく耳にする。
結婚をゴールとして目的化していたので、結婚生活が設計できなかったとか、
ある会社に入ることが目的化していたために、いざ入社したあとどう生きるかが見えない、とか。
そりゃ誰にだって「ミスマッチ」の可能性はある。
あるけども、望んでいたにもかかわらずミスマッチする現象というのはもしかすると「手段の目的化」の度合いに比例するのでは…?なんてことを考えてみたり。
そしてつくづく思うのが、学ぶことは基本的に手段であって目的にはならないのでは?ということ。
学ぶことは楽しい。
だけど学びたくても学べない環境にあるひとは、現代日本にもまだまだたくさんいるのも事実だ。
だからといって、その学びをなにかしらに活用しなければ、「手段の目的化」になってしまうように思う。
たしかに、かんたんに活用できないかもしれない。
古典がないがしろにされがちなのは、その活用しにくさにほかならない。
それでも、学ぶ前に比べて少しでも「善く生きる」ことが実感できれば、それは学びを手段として活かせたといえるのではないだろうか。
一方、手段を目的化することの効用もないわけではない。
たとえば、旅とか。
旅するときに、旅先という目的だけでなく、旅路という過程≒手段を楽しめることができることは、旅先だけを楽しむよりいくらかは幸せだと思う。
その意味で、鉄道好き、クルマ好きの人びとはそうでない人に比べて、旅をおトクに活用しているといえるかもしれない。
まぁ要するに、学ぶために学ぶ、就職したいから就職する、結婚したいから結婚するというのではなく、その先にどうするかも考えないといけませんわなって話。
そう考えると、目的にみえるあらゆることは、さらにその先の目的の手段にすぎないのかもしれない。
そのへんの話は、またこんど。
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