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『プロミシング・ヤング・ウーマン』を観てきた

観てきた。

このところ映画館でうたた寝する癖が抜けなかったわたしにとって、久々に目玉ギンギンで観ることができた。非常に面白かった。

アカデミー脚本賞受賞作だけあって注目度は高く、映画館にはなかなかの数の客が詰めかけていた。
大学生カップルらしき人びとも見かけたけど、この映画は若いカップルで観たらたぶんダメなやつ。大学でやんちゃしたことがあればあるほど気まずい。絶対気まずい。

ていうかじゃんじゃん気まずくなってしまえ。


悪態をつくのはこれくらいにして、ここでは作品の批評ではなく、純粋に考察を繰り広げてみたい。

以下絶賛ネタバレにつき、未鑑賞の方はご注意願います!!

①回想のない物語

主人公・キャシー(キャリー・マリガン)は、唯一無二の親友ニーナを死に追いやった、大学時代の人びとを徹底的に憎みまくる怒りに満ちた人物として描かれている。事件のショックで医大を中退して以降、恋人も友人も作らず、コーヒーハウスで無愛想な店員として振る舞う姿は、彼女の「闇の深さ」を感じさせる。

劇中で歯車が動き出すのは、大学時代の友人・ライアンが訪ねてきたことがきっかけだった。逆に言えば、それ以前(大学時代も含む)キャシーがどうだったのかについて、あまり言及されることがない。
なにしろ本作、映像作品でありがちの「回想シーン」がほぼない。
そのため、キャシーがいつから男に制裁を加えはじめたのかもわからなければ、どんな大学生だったかについても、登場人物の語りに委ねられている。

この点こそが本作最大の特徴であると言ってよいかもしれない。

回想や場面の時間軸を並走させることによって、観客の理解を促進させて想像をかき立てるのが一般的だ。

しかし、過去の描写が登場人物の語りからしか得られない本作において、観客が登場人物の過去を思い描くことは非常に難しい。

でも、このことはスクリーンを飛び出た現実世界も同様である。
現実世界には、他者の過去がどうだったのかを「第三者」視点で教えてくれる機能なんてない。過去は人びとの記憶を頼りに構築されていくものなのである。

キャシー自身、大学時代が「地味」だったと語っているものの、実際どうだったかなんてことは現在の視点では確かめようがないのだ。

このことは逆に、「加害者」の男たちにも当てはまる。彼らが過去の事件をどう主張しようと、それは現在の彼らの視点から作られたものにすぎない。キャシーとニーナにとって事件の記憶が揺るがない「傷」であるならば、それを引き起こした彼らは生涯、彼女たちの「加害者」であり続ける。

②ニーナについて

本作では過去を直接描かないため、すでに亡くなった人物であるニーナがどんな人物だったのかについては、観客が想像するしかない。つまり、最重要人物が一切姿を現さないのである。
いわば『桐島部活やめるってよ』方式というべきか、古く言えば『ゴドーを待ちながら』方式というべきか…。(どっちも詳しく知らないんだけども)

キャシーとニーナはまるで一心同体のように描かれ、ペアチャームがその暗示として機能している。
ペアチャーム。
ペアチャーム…。

う、トラウマが…。

失礼。
本作で愛だ恋だの概念を持ち込むのは野暮なことを承知のうえで言うと、ふたりはおそらく恋人以上だったのだと思う。
だからきっと、ラストで描かれるキャシーの死は、愛するニーナの住む世界への旅立ちを意味していたように思う。ニーナがこの世界に生きてさえいれば、ライアンという男は不要だった。確実に。

③「事件」の場面を直接描かなかった意味

劇中の後半、キャシーは事件の「映像」が出回っていたことを知る。しかし、描写されるのは音声のみで観客には映像の内容は明らかにされない。
これはきっと、わざわざ映画で描くよりも現実のほうがもっと悲惨である、というメッセージだったのではないか。

「無理に映像にしなくても、残酷で不条理な現実はそこら中に転がってるじゃん。え、気がつかない?目ん玉かっ開いてよく見てみろよゴラァ‼︎」

という作り手の怒りが聞こえた気がした。
フィクションを観に行っているはずなのに、現実を突きつけられるという。やっぱりこの映画はカップルで観に行ってはいけない。

④単線的な復讐劇として描いた効果

本作は基本的に、キャシーの復讐劇を徹底的にクローズアップして描いている。復讐を果たして劇的な死を遂げる結末は、どこか西部劇らしさがある。
しかし、泥臭さを緩和するポップとロックな雰囲気こそ、本作をどこか「かわいげ」のある物語に仕立てている。

本作は「女の子のための西部劇」なのかもしれない。

主演・キャリー・マリガンの七変化が、キャシーが復讐する必要のない世界線への想像を掻き立てる。彼女はきっと、もっと笑っていたかったんだろうな。

ラストシーンの「;」の顔文字はその涙であるとともに、好きになれた男にさえ裏切られた彼女の最期の叫びだったのかもしれない。

⑤男性批判だけじゃない?

最後にわたしが強調したいのはこの点。本作は男性ぶった斬り映画であるだけでなく、医師という職業までぶった斬りしようと試みたのではないか。

医師といえば、社会的地位の高い職業の代表格。そのため、纏う白衣のごとく清廉潔白であることが期待されている。
しかし、本作における「加害者」たちはみんな医者。清廉潔白どころか、性にまみれた泥だらけな存在として描かれる。
それはまるで、「こんな奴らでも医者になれる」とか「こんなのが医者をやっている」とでも言わんばかりの描き方。

思えばわたしの身の回りにも、どうしようもないことで評判だったにもかかわらず、教師とか公務員になれたひとがいるなぁ…。

このことはわたしだけじゃなく、日本の多くのひとが抱えている鬱屈した思いにも通ずる。

それはまさに、「こんなのが通産省工業技術院院長やってたのか」というもの。いわゆる「上級国民」への批判だ。どこぞの「元院長」のお話です。

この世の中はやっぱり、「悪い奴ほどよく眠る」のかもしれない。

おわりに

以上、『プロミシング・ヤング・ウーマン』について考察してみました。もっとこうだったら良かったのになって思うところはあったけど、それはまた別の機会に。

本作が好きなひとはきっと、『スリー・ビルボード』『ウインド・リバー』も好きだと思う。この2作品とは復讐劇であることもさることながら、アメリカの田舎町が舞台という意味でも共通している。

アメリカの田舎ってヤバいわ…と思わざるにはいられない。
住めないね、あれは。


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