チャレンジ

中学一年生の時、オリエンテーション合宿なるイベントがあった。周りとの関係も全く構築されていない時期の行事だったので今となっては印象も薄いのだけれど、「challenge」という言葉を聞くとその合宿を思い出したりする。何故か。合宿でゲスト講師としていらっしゃっていた先生が、連呼してらっしゃったからだ。みんなで「challenge」していこう!と言って、斉唱する様は今思うと些か不気味にも思える。懐かしい。黒歴史製造機みたいな行事だった。ところでchallengeという英単語、どんな単語もそうであるように複数日本語訳がある。難題とか、挑戦とか、異議だとか、そもそも単語のつもりなのか動詞のつもりなのか。ゲスト講師が「challenge」と連呼させて伝えたかったことはなんだったかといえばもちろん、挑戦していけ、ということである。難問!って叫んでクイズをしていたわけではない。

なんでこんな話をしているかといえば、新しく挑戦していこうと思ったことがあるからだ。ポルトガル語の短編を、日本語に翻訳していこうと思う。冬休みも間も無く終わり、授業が始まってしまったらどうなるかわからないが、これだけ御託を並べておいて忘れるわけにはいかないという強い気持ちで頑張ってもらいたい。もちろん、生半可な態度で勉強してきた私にとってはどんなポルトガル語も難問なので、出来はゴミである。データなので燃えてすらくれないゴミである。されども手間隙のかかったごみなので、ここで供養していこうと思う。急にnoteを使ってみたのは、なんかかっこいい気がしたからである。翻訳権の10年留保が適応されるものだけを選んで訳して載せていくつもりだ。 本当にごみなので、悪文を読んで頭痛になりたい気分の時、あるいは下を見て笑いたい気分の時に読んでもらえたら嬉しい。



José Rodrigues Migueis,「Enigma!」do Onde a noite se acaba-José Rodrigues Migueis Obras Completas, Editorial Estampa, Lda, 1946

エニグマ!

「その箱、買っていってください、お客さん。それでもうこの話はおしまいにしてください。2ポンドでお売りしますから。全く、厄介なやつだ。」
人の良い古美術商はぶつぶつ言い、咳込み、痰を吐き、エリコの壁にもひびが入りそうなくらいの大きな音を出して鼻をかみ、鍵の束を振り回し、引き出しを開け閉めし、時折不機嫌に何か呟きながら薄暗い店のゴタゴタの中を歩き回り、そして、突然巨大な仏像の後ろからまた現れて、言った。
「箱入りの地獄みたいなものですよ。アバディーン伯爵の競売で、私がこの箱を競り落としてから6年が経ちます。6年ですよ。お客さん、考えてもみてください。随分時がたちました。私はこの箱にすっかり魅入られてしまったのです。今のあなたとおんなじように。私がこれを開けるためにどれだけ苦心したか、あなたには分からないでしょう。まるで魔法かなんかがかかってるようでしてね。遂には食欲を無くし、眠れなくなり、病気がちになってしまいました。全く―これは独り言ですがね―中身は貴重なものに違いないのです。真夜中だろうが真昼間だろうが、時々箱のことを思い出すのです。そして私は布団から飛び起き、昼ご飯をすっかり冷ましてしまうのです。安息日の儀式をやめることすらしました。主よ、お許しくださいませ!
箱をつかみ、撫でまわし、匂いを嗅ぎ、ルーペでくまなく観察し、重さを計り、密度を出し、振り、箱に怒鳴り、箱を侮辱し、虚しく神の名を引き合いに出し……。全てが無駄でした。何としても開かないのです。まあ、この箱が開けられるように作られていることが前提ですが。少なくとも、中に物が入る構造であることは間違いありません。空洞で……そして何かが入っています。重さを確かめてご覧なさい。そしてゆっくり、振ってみてください……。ほら。ほとんど聞こえないくらいですが、微かに擦れる音がしませんか?軽い何かが。
それなのに!モーセとアブラハムの神よ!ええ、ハンマーで箱を粉々にしようとした日もありましたよ。すると神の使いの天使が私の腕を捕まえて止めるのです。その彫刻の奴らが!
お守りなんかじゃないかもしれないとも考えました。でもそれが誰にわかりましょう。イスラム辺りの行者の端くれのまじないかもしれない。先生、笑い事じゃあ、ありませんよ。この箱には何かあるんです。私にはこの箱を開けられるようなツキがありませんでしたが、ひょっとするとあなたはわたしよりついてるかも知れませんね。この箱を買ってからというもの仕事は横ばいか、後ずさりをするばかりです。まるで蟹のように。これを倉庫に入れておくことは大罪なのです。持っていってください、持っていってください。2ポンドです、安くは無いでしょう。でもこれにはその価値がある。もし私に宿敵がいたら……悪魔に聞かれないといいのですが……これを贈り物として送りつけていたかもしれません。だけど、あなたがあまりにしつこいから……売りましょう。しかし条件があります。もしもいつかこの箱が開く日がきたら、まあそんな日が来るかは知りませんが、中身は私にください。私が売るのは箱だけです。いいですか?絶対ですよ。書面にしましょう。」
サムエル・フィュシュベインが座って紙に何やら殴り書きをしている時、チャールズブラウン(キングスカレッジ、博士)はその貴重な骨董を愛おしそうに撫でていた。
「はい、ここにサインを……。交渉上手とはこういうことだなぁ!2ポンドとは!全く良かったですねぇ。全く私を逃してくれませんでしたものね。値段を20ポンドに吊り上げていれば不便のない暮らしが送れたのになぁ。包みましょうか?渡してください、先週のデイリーメールがここにあるので」
1つしかないランプから出た間接的でくたびれた光が、この部屋と倉庫の埃と古い家具、磁器やいぶし銀の皿、宝石に不吉な煌めきを散らしていた。倉庫の奥では剥製のイノシシが血に飢えた、どう猛な光をガラスの目玉に灯し、今にも突進してくるかのようだった。包みを手に下げたブラウンは、不安による悪寒がクロマティックスケールで背骨を下へ降りていくのを感じた。古美術商の倉庫のなかでは、不可解でよそよそしい、あの世からの古い音が、ひそひそ話をしている。まるで亡霊たちがランデブーするようだった。

背後でしまったドアの控えめな音と呼び出し用の鈴の音がチリンとくぐもった音を出すのを聞き、安堵して黄昏の湿って冷たい空気を吸いこむと、骨董品屋の細かな埃が鼻に入った。
その夕暮れはまさしくロンドンらしい、黄色くて濃い霧だった。その日は夜が明けるに至ることすらなかった。しかし、このピースープフォグが無いロンドンなんてロンドンではないのだ、と学識豊かなブラウンは考えていた。
両手は外套のポケットへ、包みは大切に脇の下へ納め、道の粘ついた夜露の上の霧の中を同じように揺蕩う亡霊の大群の中しばらく這っていた。運命の悪戯から逃れ、確信を持って、大英帝国の確然さとそして物の相対的な不滅性に近づくことができてブラウンは幸せだった。運命を信頼するのはイギリス的な考え方だ。サンジョージ マルタの騎士であり、キングスカレッジでノルマンディーの歴史を教える(まさしく)並外れた教授である博学なブラウンは、自由で独立して完全になったように感じていた。
ロンドンが好きで、霧も好きだった。それらがなければ、自分は見捨てられて原始人のように裸で異様で滑稽だと思うに違いないのだ。霧というのは(ブラウンがこうして歩きながら考えていたところによると)物や存在の輪郭をぼかして柔らかにし、親交を円滑にし、人格を深くしっかりしたものに変え、人々を自由に、そしてより尊厳のある存在にする半透明のバリアや距離やベールを人と人の間に作る。霧はプライバシーにの保護に必要不可欠な条件である。例えば、この親愛なる友人、同僚とストランドで出くわした時。彼に気づけば「やあ、こんにちは」と言って握手をする。短くて誠実で一般的、常識を豊かに備えた全く攻撃的な要素のない二言を交わす。もう一度握手をし、3歩進んで振り返った時には、もし振り返ればの話だが、薄暗闇に彼は飲み込まれ霧に溶かされているのだ!グッドバイ!触れることのできる現実として在ることをやめたのだ。ただの概念に化したのだ。純粋なイデアに、単なる観念に。今や再び見ることは叶わない。ほら、いいだろう、これは素晴らしい。幾何となった人間同士の交流……。イギリスの人間は(この学者が一層創造的な思考を膨らませて考えていたところによると)このほぼ実体のない環境で生きていて、"私"についての信仰や考え事、私的生活に有利である。実体をもつ共存の絆を結び直し、毎日目まぐるしく変わる他の存在についての考えを再構築する為に、私たちはクラブや劇場、パブ、レストランに行かなくてはならないのだ……。そうだ、ホイストが、ミーティングが、協会が、慰めが、ゴルフが、そしてそう、ウィスキーが必要なのだ。私たちが社会的に生きていて、貴重で無関心で金髪の個人で構成された世界の一員であると確かめるために。そう、それとタイムズ紙も必要だ。嗚呼、タイムズ!
その堅固さといったら王権か英国銀行しか比較し得ないタイムズ紙のことを思い出して、ブラウンの心臓は心地よく激しく脈打った。まるで天使の声が耳元で「神よ国王を護り給え」を口ずさんだかのようだった。夕方の空気を深く吸い込み体の芯まで回復し、心もすっかり満たされた。大英帝国の社会的な肉体であるというこの強い感覚を私たちに与えた、タイムズという絆!タイムズがなかったら、未だにハムレットの疑念が脅威となり不安にさせ効力を発揮していただろう––––違うかもしれないが……。あれは距離も霧も超えて、ホーム感で守りながら私たちを1つにする優れた絆である。私たちイギリス人がもし旅をして、もしあの粗野な太陽の国らを尋ねたとしたら、たどり着いた全ての場所でこの家族の絆にであうだろう。タイムズのおかげで。
タイムズは世界の隅々まで運ばれている、圧縮されたロンドンの霧なのである。
ブラウンが買い物と彼の深い思考に満足しているのは明らかだった。包みを愛おしそうに胴に抱いている。彼は誇りに思っていた。少なくとも1年に6ヶ月間は良い天気、つまり心地よく曇った濃霧の日がなければ生きていけないかなり温和なイギリス人として、自分が幸運にも数えられることを。「文明は———彼が、どこ吹く風の生徒たちにいつも言っていたことには——寒くて湿った、イギリス特有の気候の愛娘である。高い気温と乾いた空気は過度に苛だたしく、刺激的で、文化と想像の花を萎れさせてしまう……」
詳細に書かれた「気温及び空気中の湿度と文明の歩みとの関係性」(或いはそれと同じようなタイトル)についてのエッセイをブラウンは20年かけて書いていた。とはいえ見てわかるように22代目王朝下のエジプトや比較的同じように歴史的に重要な時代の天候の正確なデータが、ビクトリア女王時代の輝きと比較するには必要不可欠なのだが、欠けている。それが時折ブラウンを不安にさせた。人間の社会性を内包する重要な作に結論をつけないまま死ぬことに対する、もっともな懸念である。その上、ブラウンの分厚い ノルマンディーのイングランドにおける侵略の歴史 は自身を惹きつけ、熱中させ、そしてそのどちらかの間で振れていたが、結びに至れなかった。
悪意なく公正に言わせて貰うとこの並外れた先生の論にあるロンドン住民のparti-pris(へんけんのこと)はほとんど取るに足らないものだった。もはや、いつか独立労働党の卑しく悪名高い新聞の中で過激派のジャーナリストがほのめかしていたそれである。しかしながら、一般に労働党員そして別個に無所属の者は弱々しく心の無い堕落した非国民で、帝国の敵であり、ウィリアム1世を知らず、こっそりロシアを敬愛していて、存在しているかもほとんど怪しい人種であるというのはよく知られるところである。打ち負かされすり減った、恐らくケルトか、あるいはアイルランドかウェールズか、ウィリアム1世公から高貴なノルマンディーの血の祝福を受けなかった何処かの人種から生じている。
ブラウンはノルマンディーの専門家だった。ノルマン人の血を引いていることを証明できればそれが最大の誇りになったであろう。しかし不幸にも、ブラウンの父方の祖父はサセックス州の靴屋で、その誇りある潔白な修繕職人以前のブラウン家の血統は「馬鹿げた」19世紀の真っ暗な夜の中に消えてしまった。
ブラウンは幸せを感じていた。素晴らしい取引をした。ちょっとした浪費は愛好家の喜びように対して正当な値段だった。あの悪賢いユダヤのフィッシュベインという男に隠していたことがある。2ポンド、ああ、あの箱は金貨10枚分の価値があるのに!郵便局に入って、古い友達のハスティングスに2行ほど書いた。ハスティングスは著名な東洋学者で大英博物館の管理人、そして死んだ、あるいはかなりそれに近い言語を教える教師だった。新しい良い買い物について伝え、何ヶ月も切望してついに(メッセージの言うところによると)「シャイロックから取り上げることが出来た」その箱について話しあうために緊急に会えないか頼んだ。
ブラウンは自分の言い回しの巧みさに満足してにっこりすると、無味乾燥で品のあるレストランに向かった。 サラダとラディッシュとマスタード付きのローストビーフとビールを一杯注文する。科学に従事するもの特有の控えめさと遠慮と、自分のご機嫌をとる権利を以って、その夕方の幸先の良い出費だと彼は考えた。食欲旺盛にたべたが、包みから目は離さなかった。
箱を持って家に帰ったら、ブリジットおばさんは何て言うだろう。「またぼろを!!博物館じゃないんだから!ガラクタを置く場所はもうないんですよ!ある物ないもの全部無駄に費やして。それなら新しい外套を買いなさった方がよろしいわ。ビクトリア女王の時代のオーバーコートを着て周りを脅かしていらっしゃるんだから!」——或いはこれと同じ類の親切な言葉だろう。なんて優しい人なんだろう!そしてブラウンは入れ歯ではあるけれどもしっかりとした、或いは入れ歯だからこそしっかりしている歯を見せて笑った。
二杯目のビール(うっかり頼んでしまったのだ)の後、ブラウンは心のうちでこの記念すべき日は金の鍵でしまっておくべきだという考えを確立していた。馬鹿馬鹿しく思慮が浅い。最初に言われた6ポンドではなく2ポンドで、ずる賢いユダヤ人から取り上げたあの貴重な箱を買い上げるためにとうとう三ヶ月を使ったのではなかったのか?数シリングやそこらで彼の未来は危うくはならない。新聞を頼むと女中が厚紙のトレイに載せて運んできた。ブラウンは莫大な催し物のリストにざっと目を通しはじめた。神聖な嫌悪を呼ぶ映画の広告から目を背ける。映画というのは野蛮で異国の、ジャコバン派のフランスと粗雑なアメリカの発明品である。一方劇場は、全くイギリスらしい施設だ!
最後にある、近隣のマーティンズレーン通りのニューシアターの宣伝に目を止めた。そこでベルナルドショウなる男の、「サンタジョアナ」の372回目公演があるそうだ。この男については誰かが言っていたのを聞いた覚えがある。たしか、権威のある人だと聞いた。ある種のオーソリティ、つまり、出版された特別な雑誌の記事になった人か、そういう取るに足らんことをたくさん持っている人ではなければブラウンは聞かないのだ。まさしく誰かがこの、アイルランド出身の細くて背の高いショウという男の喜劇は非常にとっつきやすく、気晴らしになると言っていた。「ならば行ってみるか!」とこれから過ぎて行く今日の残りを心待ちにしながら、博学な男は独り言ちた。「このサンタジョアナはきっと客の笑いに満ちたフランスのパロディに違いない。実際のところ、イギリス人の上質な冗談には敵わんだろうが!」
イギリスの大陸側のかけらであるノルマンディーの所有を許せなかったフランスを、ブラウンもまた許さなかった。ノルマンディーはアングロサクソンの土地を原始の野蛮人から取り上げた巨大な人種の出身地だ。崇高なブラウンの心の中では百年戦争はいまだに続いている。ならば、この記念すべき日を締めくくるにはイギリス人らしく、フランスをからかうのが一番なのだ!夕食の支払いを済ませ劇場へ向かった。
劇はブラウンの眠気を誘った。期待外れだった。しまいにはショウなる男が芝居の才能のない高級な厄介者に見えてきた。フランスとジョアナへのひそかな親しみすら匂わせたという問題。ブラウンには馬鹿馬鹿しく思えた。笑わなかった。周りのざわめきの中、最後のセリフ—-「随分かかりましたよ、旦那!本当に長い間!」に被せて幕が降りるまで、6度まどろんでローストビーフの夢を見、嫌な気分から抜け出した。残された選択肢は独り身の巣への帰還のみだった。
バスを使うことにした。10時以降必ず眠っているブリジットを起こさないよう、抜き足差し足家に入る。しかし、ブーツの中底を指にぶら下げ包みをしっかり掴んで長い廊下を旅している間、入ったことのないブリジットの寝床からわざとらしく乾いた咳をするのが聞こえた。部屋へ着き、ベットのそばの机に包みを置くがはやいが長くて立派なネグリジェに体を通し、詳細さと用心深さを以って箱をうっとり見つめはじめた。
実際それは軽く、軽く擦れる音を出すなにかが入っている空間が中にあると感じさせた。開く気配はない。箱、或いはそうではないかもしれないそれはどう見ても信仰を持つ物にしか見えなかった。上面は長持ちの蓋のように滑らかで丸い。精巧な、陶器でできた浮き上げ彫の4つの顔が緊密に箱を飾っている。4つの顔は使徒か修道士の禿げて賢い頭であり、明らかに仏教徒だった。分厚い瞼に引っ込んだモンゴル人の目をしている。顔ぶれのうち何人かはふっくらと艶々としていて肉感的、太った修道院の蛇と共に居て、おたふくで縁にぶら下がっている。残りは痩せていて敬虔か、細いシワがあった。しかしその全てが華奢な神聖さを以って微笑んでいる。穏やかな話し合い中の自然な体勢を取っている手はふっくらとして官能的であるか力強く神秘的であるかのどちらかだった——それにしても、生き生きとしている……この芸術家の優れたナイフは思いがけなく、集会でそれぞれの信条の程度について面と向かって穏やかに討論する二派をそこに描こうとしたのだ。
アイロニーと神聖の時代における素晴らしい作品だった。ブラウンはこの無名の芸術家について考えた。彼の灰は高地から吹く悪戯な風に飛ばされて、数世代に渡る旅人やラクダや乞食たちに踏みしめられた道の上で、埃と混ざり合ったのだ。その木は仄かに黄昏の香りがした。ノルマンディーの専門家は心地よさに目を閉じて香りを吸い込み、想像が彼をアジアの神秘的で愛情深い雰囲気へ誘った。そしてユダヤの男の言葉を思い出した。「ひょっとすると、あなたは私よりついているかもしれませんね……」あれはどういう意味なのだろう?本当にこの箱に魔法がかかってるとでもいうのか?
少し考えたのち、言い様もなく不安になった。二重の入れ歯をコップに入れて、ミネラルウォーターでうがいをし、寝床に細い脚を通し、少しだけねむった。いつも通り、安らかに、一人で、帽子をかぶり、中世の逸話に出てくる学殖豊かで嘘偽りない博士とおんなじように。

しかしその日の夜は穏やかではなかった。気がかりな夢を見たのだ。正確にはその夢が全て不吉だったわけではないが。行進している象の上の神輿の柔らかな中、高いところで心地よく不信と快楽に揺すぶられるように思った。ブラウンの周りには緑色のぼんやりとした東洋の景色が漂っていた。インド帝国を横断するところだと気づく(この混沌から夢とわかった)。家に居ながらにして千夜一夜物語の中にいる気持ちになるには十分だった。象使いが—-皮肉で生き生きとした小さい目をしたモンゴル人で、ふと気づくと彼は変装した古美術商のフィッシュベインだった—-突然叫んだのを合図に象が歩みを止め、膝を地面に着き、散歩に満足したブラウンは軽々と柔らかい地面に着地した。
理解できないとはいえ頭の中ではっきり翻訳できる言葉を使って、象使いは馬鹿らしいほど恭しく大声で言った。「伯爵様、此方に御座いますのがチベットの門であります」。そうして三度、開いてある本へ額がつくほどのお辞儀をした。あの本は英国大百科に違いない。その時象使いはもうモンゴル人でもサムエルでもなく、ノルマンディーの男爵だった。ブラウンは敬意と熱情でいっぱいになって、自分はキングスカレッジの門の前にいるのだと思った。そこで起きた全ての不測の事態に感激しつつ、入る前の建物を素早くちらりと見る。装飾に富んだその優雅なパビリオンは、恐るべき忠実さであの大事な仏教の箱を再現していたのだ!ブラウンの心臓は生き生きと脈打った。
しかしすぐに門は消え、象とその象使いは蒸発し、景色は悲しげに色を失った。建物の周りを薄い不安を抱えて走っていたブラウンは一人きりになってしまった。やせ細った丘の頂上に立つ箱の建物のその先から地平線まで全てが黄色く、砂だらけで無人だった。不安は増していた。門を見つけられずにいると、壁に掘られた像の1つが丁寧で親切な仕草で、繊細で引き締まった細い右手をブラウンに差し出した。土台の上で回り、狭い隙間を作ってくれた。息を切らしてなんとか這いつくばってその隙間を通ると、ブラウンは神殿の中へ入っていた。その時は神殿だと確信していたというのに!
ブラウンは生徒2人を目の前にして教授の席に座っている自分に気づいて、驚き、そして安心した。のちに気づいて当惑し驚いたのだが、いつものちゃんとした英語で話すことができず、単音節で咽頭音のある彼自身も理解できない別の言葉を使ってノルマンディー公ウィリアム1世の歴史についてぺちゃくちゃ喋りはじめていた。一言すら理解することは出来なかったが、大筋から外れたノルマンディーの話をしていたという確信があった。生徒たちは机にこうべを垂れ、動かず、寡黙で、ブラウンにほんの少しの関心も示さないように見えた。ブラウンは見知った親しみのある顔形を見出そうと儚くも努力していた。それほどまでに不安は大きくなっていたのだ。こんな事は起きた事がなかった!そして彼らに話を聞かせて尊敬させるような方法も全く見つからなかった。ブラウンの言葉に無関心に、生徒らは不可解な文字と版画で埋め尽くされた大きな本のページを黙々とめくっている。ただページをめくる苛立たしい音だけがあった。
その聴衆の気を引くために、まさに超人的で大変な努力をした。叫びもしたが、喉から出たのはしわがれて引き伸ばされた断末魔のような音で、言葉を形作るに至らなかったので叫びと呼んでいいのかわからない。
そんな時、生徒たちはその場にまるで幽霊のようにゆらゆらと立ち上がり、静かに空中で踊りはじめた。ブラウンは文字通り口をあんぐりと開けたままになった。前代未聞の、カヌート王以後のイギリスの教育の記録のどこにもないほどの無礼な行動である。ブラウンはそれに抗議し叱って、守衛を、彼を助けてくれるような守衛を呼びたかった……しかしよくよく見ていると、それらが女性で、おそらく妖精か吸血鬼か何かで、裸か半裸か(よく判別ができなかったのだ)で重さのない霧のようなベールの中、淫らで破廉恥でショッキングな踊りを踊っていることに気づきゾッとした。戸惑い怯え、嗚咽を漏らすほど動揺していたが、そのお化けの舞踏会のように静かで、ぐるぐると渦巻く抗うことのできない乱痴気騒ぎに無理に引きずり込まれているのは彼女らの意思ではない様に感じた。
すると、ベールと、裸体と、薔薇色のみずみずしくてかぐわしい霧のような物で出来た螺旋の中へブラウン自身の体も蒸発し、ふわふわと浮かんだ。かと思えば柔らかい女神の1人の上にだらしなく背中から落ちて行き、その女神は、ノルマンディーの偉大な公爵の名前の幾つかと、密かに淫蕩な意味を持つ馴染みのない言葉をないまぜにして絶え間なくぶつぶつ言いながら雑に渦の中へまたブラウンを投げ込む。赤くなった顔に温もりのあるみずみずしい腿や心地よい腕、艶々とした胸や良い香りのする髪の毛が触れた……。胸の中で、心臓が快楽で燃え、星のように脈打っていた。その舞踏はもう一度、そして何度かブラウンに襲いかかり、それはまた同じように上に行ったり下に行ったり無重力(そして無モラル)のこの上なく心地よい浮遊だった。
しかし一方で、突然厳格な良心のとがめが彼を襲った。もう一度叫んでこの乱痴気騒ぎを止め、きびきびと規則を主張してやりたかった。ところがこの妖精の片方が——妖精たちは今度は歴史の授業の生徒たちだった、この愚か者たちめ!—-ブラウンの少ない髪の毛やらうなじの赤くなった皮膚やらを乱暴に掴み、力尽くでその大きな乳房の、硬くこわばった乳首をブラウンの口に突っ込んで、無理やり子牛の様に乳を吸わせたのだ。バタバタと反抗をして息を切らせながらようやっとその苦しみから自由になると、全ては煙と消えたのだった。
ブラウンは自分が目覚めたのかどうかわからなかった。汗をかいてベッドを転げまわり、夢はしつこくころころ変わりながら際限なく繰り返し再開した。
神輿の中にいるところを象の鼻に掴まれて地面に乱暴に投げ捨てられることも何度かあった。焦りと不安に駆られ、「今度は、今度こそいける……」と考えながら巨大な階段を登り、箱の神殿の狭い扉を通っている時、見えない手がブラウンを後ろへ引っ張った。逆らおうと甚大な努力をした。入りたい、あれを解明したい……。と不意に手離されて入ることのできない箱の前にばたりと倒れ、地面の砂にめり込み、それを吸い込んで苦しみ、呼吸が苦しくなった。

ブリジットおばさんがそっと扉を叩いた朝の6時、ブラウンはベッドにうつ伏せで、脛には服が絡まり帽子の先っぽをまるでおしゃぶりの様に口に突っ込んだ状態で目覚めた。寝るときに窓を開け忘れたせいで、部屋は息苦しくなっていた。反省が見られない犯人は、昨夜の不安をローストビーフとビール、そしておそらくアイルランドの憎むべき喜劇のせいという事にした。ベッドのそばのテーブルには開かずの箱が、その彫刻に微笑みをたたえた箱が置かれていた。
本当にこの年齢と地位を持った、規律と純潔さに溢れるナイスでまともな男として、昨日の夢が不適切で恥ずべきものだったのか考えながら、バスルームに駆け込んで冷たいシャワーを浴びた。ブリジットさんの、まるで叱言の様にのしかかってくる沈黙の中で、ブラウンはあえて彼女に目を向けることなくベーコンエッグと濃い紅茶を一杯、大急ぎで飲み込んで授業へ出かけた。

「ふむ、これが貴重品で莫大な価値があるのはまちがいないな!」と、ブラウンのオールドフェローであるハスティングスはいった。数日後ブラウンは興味に燃えながら木綿に包んだ箱を持って彼の家を訪ねたのだった。
たしかに、きっとこの素晴らしい小箱はブッダの時代のものだろう。しかし誰が危険を冒してそれを確かめるというのか!1つのかすり傷もない。信心深く保存されていたのだ。太陽や雨さえこの箱を傷つけたことはない。ちょうど最近イギリスとドイツの考古学者がチベットと中国中心部で行った発掘で発見したかのような、仏教の格式高い彫刻の完璧な模範だった。専門的知識を有するハスティングスはいくつか本をめくって、類似品を示してその発見の貴重さについて何分か論じていた。その本のうちの一冊に、ドネリーという男がラサ市へ巡礼者に変装して忍び込んでこっそりとったという写真があった。おんなじ様式だった。興味深い、実に興味深い!なによりも好奇心をそそるのはその箱の開け方を誰も知らないということだ。これは本当に箱なのか?いや、たしかに箱だ。有名な伝説があった……いわくありげに何世紀も、もしかしたら何千年も閉じられていて、ある日、なんらかの方法で何故か—-おそらくラサ市が秘密にしている、卓越的で神秘的で実利的な方法で——突然に開き、現れるのだ……何が現れるのかは神のみぞ知るところだが!

「その上」、とノルマンディーの専門家が驚きを募らせている前でこう締めくくった。「これはイギリスに存在している唯一の例だ……いやおそらくは、アジアの外といってもいいだろう。驚くべきはサムエル爺がこれをたった2ポンドで手放したということ……ドネリーはラサ市の外に3つあると書いていた。1つはネパール王の所有するところにあり、他はカイロのラージャの宝庫の中だ。最後はデリー……待てよ、アバディーン伯爵の遺産の中にあったと言ったかい?昔インドの副王の総秘書だった彼か?何年か前に自宅で謎の死を遂げた……おかしい……どうにもおかしい……!」
黙ってしまった。その瞳には魅力的で色褪せない光が宿っていた。箱を手にのせて塾考していた。また、不快な悪寒がブラウンの脊椎を下へ駆けて行った。
数週間がタイムスリップしたかのように消えていき、数ヶ月後ブラウンはウィリアム1世とその男爵たちの権力強化についての授業の平坦なルーティンの中で過ごしていた。緩慢なベアリングの中に彼の人生は戻って行ったのだ。小箱を開けるための彼の努力は無駄だった。あのユダヤ人やアバディーン伯爵、そして全ての人の努力と同じ様に。喧嘩っ早い征服の教授にしては奇妙なことであるが、彼は暴力に訴えることはあえてしなかった。いくらそれが古くて不可解であろうと、そして2ポンドの代物であろうと宗教的な尊敬の念が十分にあったからである。そしてまた貴重な芸術品に傷をつけるのを嫌がったというのも正しい。逆に書けば、サムフィッシュベインは中身の持ち主だったということだ。刺激的に始まったこの謎は少しずつロンドンの霧と日々の仕事の中に埋まっていった。
今や埃がうっすら積もり始めている(ブリジットおばさんは、飾られている物に触るなという厳格で脅迫的指示を守っているのだ)あの箱の変事以来、ブラウンに残されたのはあの夢のノスタルジックな印象だけだった。あの夢をもう2度と見なかったのは、ピューリタンの独身の男の良心の安寧にとっては幸福なことだった。
今度は空虚な憂鬱と束にした叱責を以ってそれを見る様になった。しかしパンドラの箱の話を思い出してすぐに自分の教材や、文化と文明の発展に於ける空気中湿度の影響についてのくだくだしく不毛な思考に戻ることにした。
さてある静かな日曜の朝、ロンドンは長く暗い冬から目覚めた。霧は散り、春がテムズ川の灰色でいくらか脂っこい川面の上であくびをしにくる。輝かしくて穏やかな、パパラッチのような日光が高い窓を通ってずかずかとブラウンの書斎へ入ってきた。ブラウンは勤行ののち、伯爵らの霊に捧げる不朽の作品として一心にある「ノルマンディーのイングランドにおける侵略の歴史」の16章の初っぱなの文句を考えつつ、足元に猫を携えて肘掛け椅子の上に伸びをしにきた。
どんな人間も、名声を無くした独身のブラウンも同じく、春の日曜の日光による邪教の誘いには抗えない。ノルマンディーの霊も空気中の湿度の理論も、魂とモラルを自制する重たい石の下で見た夢の可能性を打ち消す抑制的な羞恥心も、存在しない。太陽が膝をくすぐって、あの春の心地よい気だるさの中で思考力が逃げていくようにブラウンは思った。奔放に細い足を伸ばして、首の後ろで腕を鳴らし、肘掛け椅子の上を滑り落ちるまま、花盛りの栗の木と小鳥のさえずり、柔らかい芝生とスコットランドの湖が出てくる幸せな夢想に身を任せていた。自然について考えるのは神話を思い出すことなので、ブラウンは不本意にもあの箱のふざけた夢の染み入るような魅力を思い出しはじめた。
太陽が想像力をかきたて、物憂げな青年のような気持ちにさせた。ロンドンらしいいい天気の朝であったなら、ろうそくと猫から目をはなすことすらしなかっただろう。目の前の壁の張出棚の上、半透明の大理石と出来たロダンの「永遠の青春」の精巧な模刻像もまた目覚めたようで、軽やかで明るい空気の中に舞い上がり息をしはじめた。新しくて温かい命は書斎の厳格な物達を生き返らせたようだった。ブラウンは深呼吸をして(より正確には大きなため息をついて)、窓から入る生温い空気が、肉体の片隅に隠れて未踏の、奥深いとある琴線を揺らしはじめたのに気づき、感動した。ただ感じた。不可解なことに、ただそう感じた。アンゴラ猫が絨毯の上で艶めかしく伸びをした。猫もまた春を感じ取ったようだ。可哀想な子!空気中の湿度が低いとこんな風になってしまうのだ!!ブラウンは猫の毛を撫でようとしていた。
その時、乾いた短いパキッという音が復活祭の沈黙にヒビを入れた。年寄りが動いた時によく鳴らす粗野な音でないことは確かだった。磁器がガラスが(たまにあることだが)ひとりでに割れたような控えめで繊細な音だった。その瞬間、ブラウンは驚き警戒した。何だったんだ?家にいたのはブラウンだけだった。ブリジットは説教と週に一度の訪問をしに出ていた。音は書斎の中、すぐそばで鳴った。ストーブの方を見た。きっとストーブではない、女中の抜け目のない節約によって何日も消したままになっている。ふん、なんてことだ!猫が伸びをして関節を鳴らしたのかも知れない……しかし、そうだ。猫が鳴らす音には全部、昔から慣れている。別物だった、乾いた、鋭くて小さな何かが割れる音……
耳を研ぎ澄ましながら、書斎を目で見て回った。おお、神よ、あなたの元にいるロダンだったりして……。突然にブラウンは立ち上がり繊細な彫像を調べに走った。大切そうに抱き抱えくまなく確かめ、手触りの良さを感じはじめながら触れてみた。どこにもヒビはない。無傷だ。しかし、落ち着こうと像を指の関節でコツコツやっていたときだった—-また、パリン!今回はその音は間違いなく、はっきりと、鼓膜を突き抜けてきた。驚いてロダンを手放し、また目を見開いた。猫さえ寝ぼけて立ち上がり、不安げに、毛を逆立てて、ネコ科の王が持つ、巣を心配する気持ちからバルコニーの大きく開いた窓の方を見ていた。呆気にとられたブラウンの目は空を滑り、猫の魅力的な眼差しの軌道を追った……窓のそばで、馴染みのある障害物が彼の視線を遮った。一本足のテーブルだ。その上には、日曜日の朝の素朴で澄んだ日光に気前よく包まれた、チベットの箱が置いてある。猫の目がおかしいほどじっと見ていたのは箱だったのだ!
尊敬すべきブラウンは肌の表面に走った電撃に耐えることができなかった。彼の赤毛もまた逆立ち、少ない髪の毛が禿げの周りで光輪の形になるのを感じた。箱だったのだ!箱が鳴っていたのだ!
ブラウンは大切な箱に向かって突進していった。感激に震えながら、箱を舐めるようにみ、あえて触りはしなかった。何世代もの信徒にやって恭しく触れられてすり減った小さな彫刻たちが太陽の光に煌めいた。使徒と禁欲者の皮肉な微笑みには強調された皺があった。手の筋や関節の瘤、服の皺、全てが正気を得て生きているように見えた。ミイラの復活についての取るに足らない会議を描いているのだろう。益々人並み外れた教授はくらくらさた。活版印刷と羊皮紙との長きに渡る戦いの結果華奢にはなれなかった、太くずんぐりした指を伸ばしてそっと触った。箱は少し温まっていた。
掴んだ。手の中に生き物の体があるような、典礼の神秘がアングロサクソン人の芯の深さまでまっすぐ入り込んでくるような、感覚になる。ゆっくりと恭しく、箱を指の上で回すと、大きく見開いた目で見えないくらい小さな縦の裂け目を見つけた。それは箱の端面のうちの片方、ランデブーする2人の使徒の間を柱に沿って開く裂け目だった。もう1つは最初の裂け目と平行で、一番小柄で太った使徒がそう、笑顔とその艶のあるおたふく顔と禿頭を携えて2つの裂け目の間に座っている状態を作っていた。「日光のせいか!」とブラウンは茫然として考え、彼の胸にもまたヒビが入り、魂と血が流れていくばかりに思った。彼には酷く恐ろしく思えたのだ。ロンドンの靄に研ぎ澄まされた半ダースの知性で以ってして拭えなかった謎が、ほとんどスペインやまさにフランスの平俗な太陽の光に、日曜の怠惰でありふれた、労働党員にしか利をもたらさない太陽の光によってこんな風に紐解かれてしまったということが!
細心の注意と苛立ちと太い指の先っぽの使用を両立させつつ、ブラウンは敬うべき仙人の額を触った。そしてその木が軽く揺れることに気づいた。この中に、秘密がある。いくつか変化を試して、ある程度、少し強く押すと、使徒は座ったまま底面として機能していた台座ごと、旋回偏り軸の扉のように回転した。
ブラウンは動揺のあまり震えた。扉が回転した軸をもう一度押すと、左へ滑り、猫の足が通るには十分くらいの隙間ができた……箱が開いた!
ブラウンの歴史家としての長いキャリアのうちで激しかったものたち以上に強い感情を味わっていた。(他のは例えば40代の時にブラウンが憧れていたドロシーティッタートンがなんとか説得しながら、彼が人生で唯一申し込んだ結婚を断った時だった。)しかし、そのうちのどれも、この小箱の謎にとって決定的な瞬間とは比べものにならなかった。閉鎖的なアジア仏教の歴史にとってすら決定的かも知れない!
それなのでその小さな窓を覗く前に、ブラウンはスポーツマンシップに則って目を瞑り深呼吸をして、小さな声で10数えながら不安な猫が後ろをついてくる願掛けの散歩を書斎の中でした。このようにして、偉大な男たちが偉業や最期の瞬間の前にいつもしていた「人工の瞑想」(ブラウンのいつも呼び方による)の時間のうち1つを実現した。
一瞬古物商の姿が頭を過ぎった。彼はすぐに箱の中身の所有権を主張しにくるだろう——奪い合われる息子を胸に抱きしめた手が震えた。その後はあの夢の中の淫らな女たちや、ハスティングスの混乱で見開かれた目をチラと思い返し、意味深長に笑うと、この箱を同じように手にしたアバディーン伯爵のことを考えた。きっとその時……。ブラウンは怯えて目を開き、動揺を抑えようとした。
いつもより堂々とした動きで箱を書物机の縁へ、日差しの方へ置いて、眼鏡を拭き、近視で鳶色の瞳で箱の中身を調べようと絨毯の上に箱と一緒にしゃがんだ。内側の影の中に何かが白く見えた。ブラウンの心臓は胸の中で爆発し閃光がひらめいた。落ち着こうとまた10数えた。そして畏敬の念に震えながら二本の指を隙間に差し入れた。
箱に入っていたのは四つ折りにされた薔薇色の紙切れだけだった。折ってあるのを開くと、小さな金色の髪の毛でできた輪が出てきて煙の輪の様に宙を舞う。アンゴラ猫が捕まえようと跳ね上がった。ブラウンは髪の毛を空中から掬いあげ、小さなメモを読んだ。そこにはこうあった。

小麦色の肌でトカゲみたいな怠け者のアフマドへ、勤勉なブロンドより感謝を込めて、思い出の縁を
                                                               キティ

それだけだった……。
その日の午後、訪問から帰ったブリジットはもう死後硬直しているブラウンを発見した。窓は開きっぱなしで家は冷え切り、猫は逃げてしまって、チベットの箱はぴっちり閉まっていて、恐らく風が、薔薇色のメモを連れて行ってしまっていた。スコットランドヤードの警察が、チャールズブラウン(キングスカレッジ、博士)の引き攣った指の間で見つかったちっぽけな金髪の、女の巻毛の謎を解き明かすことは遂になかった。



読んでくれた人がもしいたら本当にありがとう、今日食べたオリーブに紛れてたかわいい鬼の写真あげます

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