思うこと。

働くこと

一年半勤めていた会社を辞めた。

結果的には精神を病んでしまったけれど、一年半と書き出してみれば、本当に短い期間だったな、と思う。

新卒で入社して、沢山の同期と時に励ましあって、時にライバルとして、成長してきた。件数でいえばかなりの数を、一年前の自分には考えられないほどのものをプロとして残して、会社を辞めた。正直、やめようと思った日は、正確にいえばかなり前だった。その度、全てがこなせるようになったわけでもないのに、そんなことを思うのは違うんじゃないか?と自問自答しながら、一年を過ごした。私を厳しく育て、成長させてくれた先輩達には、すぐやめると思っていた、と言われたくらい、泣いてばかりの一年だった。もともと「怒られる」という事に慣れていなかった所謂「ゆとり世代」の自分にとって、この会社に入ることは決意が必要だった。もちろんゆとり世代という言葉に甘えるつもりもなく、一纏めにするつもりもない。ただただ、自分自身が極度に怒られるという事に対して敏感であっただけ。

こうして精神を病んでしまう、ということはそれこそ自分の事なのだから、よく分かっていた。誰だって苦手だと言われることも多く、それは理解出来る。でも、それだけじゃない。昔からどうにも苦手で、自分でも理解できないほど怒られることが苦しかった。多分すこし、異常なほどに。甘えだというのなら、そう思うのなら、構わない。そう感じる人とは、一生分かり合えない部分があるのだと明確に証明されるだけだから。そしてそう感じる人は、物事をシンプルに、明るく捉えることができるのだと思う。わたしにはいつだって、それが出来ない。考えて考えて、考える必要のない部分まで考えてしまう。人の目が怖くなり、何を思っているのか、何をしているのか考えてしまう。それが良かった時なんて、ほとんどない。ただ、空気を読むことに関しては、上手くやれていると思う。多分誰よりも敏感に、人の表情の変化を見るようにしているから。正解不正解は無しにしても、その分すこし、生きにくいのかもしれない。

怒られることについては、どんな環境にいたって、絶対に「怒られる」ということは存在していた。アルバイトの時は右も左も分からない状態で日々怒られながらもしっかり働き、お金を稼ぎ、新しい人達との繋がりができて、三年間無断で休むなんて事もなく真面目に卒業出来た。だから、とすこし驕っていた部分もあったのかもしれない。

言い方は上からにはなるけれど、だからこそ。それでも。試してみたかった。

この一年半の中で私は色んなことを学んで、人との関わりだとか社会の云々だとか、そういった大切で基本的なことを十分に、自分なりに飲み込んで、成長出来たんじゃないかと思っている。会社にたいして思う事は沢山あるけれど、紛れもなく感謝の気持ちが大きい。むしろ会社にたいしてまったく不満もなく働くことなんて現代の日本、情勢には難しい話なのだと思う。

辞めてしまった今、いまさら何を言っても、証明してくれるものは根拠のない自信のみだけど。全てひとりでこなせるようになった、社員一人で店舗を任せてもらえるようになった。それだけでわたしは十分だった。言ってしまえば、昇進する意欲はそもそもなく、ただ、「誰か」にとっての「何か」になりたかった。今までの人生でどんなに頑張っていてもほんのすこしのミスをすくわれ、責められ、誰かが評価される。そんな人生の中で、誰かにとっての、たった一人の「わたし」になりたかったのだ。それが変わっていくものでも、一瞬でもいいから。あなたでよかった、と言われることが、私にとって働く理由の全てだった。

できない

ふと、何回か感じたことは。わたしは人よりも、「なぜかできない」ことが多いように思う。わかっているのに、こうしなきゃと思っているのに、できない、ということ。生活面でもそれはよく起こっていて、よくわからない場面で苛立ったり、些細なことが気にかかって喧嘩腰になってしまったり。きみはすこしヒステリックだと言われるのも、ある程度頷ける。激昂することはないけれど、淡々と相手の悪い部分を言及する。実際、もっともっと長ったらしい文章で責めることだって出来てしまう。文章力なんてないのに、言葉は凶器なのだと。冷静にその先のやり取りを考えて、言葉にセーブをかけられるだけ、正常で。良くも悪くもさっさと嫌なやり取りを終わらせたいなら、いっそ汚い言葉で吐き捨てる方が、もっと利口なやり方なのかもしれない。

カメラについての話

わたしが機材とかそういうのにあまり興味がないのは、どんなに良いものを使っていても写真が良くなかったら意味がないと思ってるから。学生時代は授業でフィルムを扱う反動もあってデジが好きだったけど、そうじゃないんだなあ、と思う。私が好きなのは、誰かが何かを考えながら、時には無心で、見せるか見せないかも考えずにシャッターを切った、写真そのものなんだよな。それでお金をもらうならまた変わってくるのはわかる、言い方は悪いけど、雑に撮って残すというのはお門違いというか。

ただ、表現者になるには、生まれ持ったセンスはどんなに良い機材を持っていても、どんなに練習を重ねても、天才をこえられないし誤魔化せない。あと、どの写真が良い悪いとかは感性によるものだからなんとも言えないにしても、専門分野が違う人にどう思う?って聞いて返ってくる答えに何を期待するの?とは思う。だってその同じ質問さ、専門の人に言えんのかって。聞かないっしょ。自信がないから、あんまり知らない人にどう?って聞くんじゃないの。すごいね!よくわからんけど。かっこいいね!知らんけど。その反応で満足なのは、現状に満足したい人間のする事なのかもしれないな。

天才の基準なんてよく分からないけど、簡単な言葉で言えばこうじゃない?天才、鬼才。けどそういえば、天才なんて最近聞かなくなった気がする。後者のほうがよく聞く。皮肉も込められてんだろうなー、なんて思ってる。もちろんいろんな力が必要だったりもあるかもしれないけど、誰もがみんな良いというものを創り出すには、それだけの才能がある程度は必要で。まったくゼロの才能で何かを創り出すなんて、絶対に無理な話。

SNS

あと。良いものにはそれだけアンチもつくし、すべてを否定するような胸糞悪いコメントもよく見る。これも、今っぽいなと思う。みんなそうなってしまうのは、しょうがない部分も実際ある。だって自分は「そっち側」になれないからね。努力したってダメな人、努力もせずどうにかなりたい人。わたしは前者だと思いたい後者。これも一定数いるし、もしかしたらそういう人がアンチになるのかもしれないな。要するに、何者にもなれない人間が、羨ましいという感情を捻じ曲げて、表現者として活躍する人物を罵倒しているだけに過ぎない。ただ、わたしはそれを見るのが反吐が出るほど嫌い。もちろん嫌いな人はいるし、みんなどうしたって合わない人はいるんだからそうなんだろうけど、それをわざわざ口に出して自分の価値を下げてまで同じ人間にたいしてぶつける人が、死んでほしいくらい嫌い。ストレス発散するならいくらでも方法あるだろと。いじめをする心理はそういうところにあるんだろうよ。結局は。みんな保身に走って、みんながやってるから自分もやっていい、みたいな無駄知識で容赦なくいらないアンチをしていく。思うことがあっていいけど、それは別の場所で残すべきで、もちろん本来は残すべきじゃない。共感がほしいならもっとプラスのことでモチベ上げようよ。誰かが可愛いとか。現代の人ってマジで違うんだよ、ちゃんとあなたはあなたでさ、いいところは絶対にあるんだよ。なんでそうなっちゃうかな。

うちの学校ってそういえば、イジメとかはなかった。それは多分、みんながみんな自分にどこか自信があって、いじめをダサいと思う文化が根付いていたからだと思う。いじめがかっこいい文化ならきっと起きていただろうし、そういうところは単純なようでしっかりしている学校だった。誰かが一人だったら誰かが誘うし。もちろん一人を好む人もいたけど。それは孤立とかではないというか、ちゃんとグループ作業のときは関わるし、なんだって手伝って協力し合う姿勢はあって。普段はグループに属していても、基本的にみんな一人で登下校したいタイプが多くて。学校にいったら仲良いし、一緒帰ろとか言われたら普通に帰るけど、別に基本的には一人でいいというか。途中で会ったら一緒に行くし。誰かと一緒じゃなきゃ、みたいな依存みたいな感じがあんまりなかったように思う。なんとなく常に一緒にいたりはするけど、他の人たちといても平気、みたいな。広く浅くのタイプが良くも悪くも多かった。

大人になって、今みんながどうしているかわからないけど、それとなく聞くことも多くて。SNSは問題視される傾向にあるし問題点もわかる、けど、使い方さえ間違えなければ便利だし必要不可欠なツールになっていることは間違いない。いま、あの頃のみんなと繋がっていられるのはSNSのおかげだし、まったく会わない人でもコメントのやり取りがあるのも、SNSという気軽なツールのおかげで。会う、とコメントする、の重み、全然違くない?違うよね。わたしは基本的に誘われたら行くスタンスだし会いたい人には積極的に連絡を取るタイプだけど、去る者追わずくるもの拒まずのスタンスは変えたくないな。この先も。なんだか会社を辞めてから学生時代の友達から連絡をもらうことが多くて、仕事が忙しいを理由に会えなかった人と会えて、幸せなことが沢山あって。頑張らなきゃな。

この先のいつかの自分が、この経験を活かせますように。

0722.

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