私たちは、いつまで「最高」を味わえるのか。

「今日は"最高"だった。」

毎日そう言って終われれば言うことは無い。さりとて、伊達に30年間を生きているわけでもない。"最高"と思える瞬間を既に何度か味わってしまっている。よって、その"最高"を更新する"最高"に出くわすことは容易ではないような気もしてきた。いつまで最高を味わえるのか、少し心配だ。

例えば、会社を休んで妻と出掛けたモルディブも、お給料を貰いながら行かせていただいた英国留学も、充実していたが"最高"と言えるかといえば疑問符が付く。どうやら私にとっての最高は、異国の地で羽を伸ばしたり勉学に励んだりすることでは無いようだ。

幼少期や思春期は小さなことで"最高"を味わえた。頭の良い友人にテストで勝ったり、気になるあの娘からメールをもらったり。日々の成長を「五体」で物理的に実感できてしまう時期には、今では考えられないような「何でもないこと」が何百倍の密度で感じられ、最高の瞬間になったものだ。あの高揚感は、今どれだけレバレッジを利かせても得難い代物であり、今同じ事象が起こっても"最高"とはならないのだろう。

そう書いて、「まてよ。」と考える。

果たしてそうだろうか。むしろ、"最高"の瞬間は、今なお日々の中に転がっていやしないだろうか。

身体的成長が止まっても(横方向にシフトするケースもあるが…)、できることはどんどん増えていく。あの頃想像もできなかった日々を、私たちは今送っている。いつか「できること」が減る瞬間が訪れても、それまで携わった「何か」や「誰か」が大きく羽ばたいていく光景を見守っていくことができる。後輩の逞しい仕事振りを見ると、そんなじんわりした気持ちが膨らむ。

「今日が最高だった」と思える日が無くなることはないのかもしれない。最高とは、棒高跳びのように過去最高のバーを飛び越えていく作業ではなく、毎秒変わりゆく自分の中で常に再定義され続ける。そんな考えはどうだろう。楽天的だろうか。

先々のことは、いずれ分かるだろう。少なくとも、この頃の私の言動を振り替えれば、自分の寄与によって所属する集団や組織が前向きに向上していってくれる瞬間が最高のようである。

控えめに言って、今日も最高の一日だった。金曜日の夜にそんなことを思いながら、スマートフォンを机に置く。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)